カヴェナロードの坂を下りていくと、オーチャードロードにぶつかる。
左に行けばヤオハンそして首相官邸だ。
右の角には行きつけのラビットハウスの入るビルがあるが、今日はそこに用事ではない。
だいたい、まだお天道様が頭のてっぺんだ。
道代もケイ子も寝ているだろう。
そのT字路を右に折れると、シンガポール最大の繁華街オーチャードロード中心街に入る。
その通りに、20階くらいの比較的低い雑居ビルがあった。
10階くらいまではテナントが入った商店街、その上は住居だったと思う。
久々の3連休。
明日はセントーサにでも行ってみよう。
そう思いながら、海水パンツを買った。
ついでにウィンドーショッピングをしてみる。
1万円近いキルナの爪切りやら、10本くらいの耳かきセット。
日本では見られないものに、男の私でも時間を潰せる。
8階くらいだったろうか。
宝石店が目についた。
宝石など買う金はないが、見るのは好きである。
一つ一つの石をまじまじと見ていると、インド人の店長らしき男がやって来た。
「旦那、なにをさがしているんだい?」
「アレキサンドライトはないの?」
私は無理な注文を出したつもりだった。
ダイヤモンドよりはるかに希少だ。
あるはずがないだろう。そう思ったからだ。
と、その男の目の色が変わった。
背中の鉄格子を下す。
あれれ、ちいとまずいなとは思ったが、そんなそぶりは見せてはいけない。
大きな音とともに、完全に入り口が締まり、私は鉄格子の檻の中の住人となった。
男が奥に案内する。
奥の方から、黒檀か紫檀の箱を運んできた。
「これなんかどうだ」
箱の中には、鈍い赤い光を放つ石があった。
20カラットはありそうだ。
ゲッ!まさか本物?
私は、我慢して平静を装う。
「ちょっと見ていい?」
男は一瞬間を置いたが、頷く。
それを手に取り、照明からずらし手の平で覆う。
濃い緑色となった。
ワオ、本物だ。まずいことになったぞ。
「25万ドル。いや現金なら20万ドルに負けてやってもいい」
男が言った。
私は心臓の動きを悟られないように、少し考えたふりをする。
「いい石だ。ちょっと考えさせて」
私は無事鉄格子から出られた。
たぶんぎこちない笑顔をして。
クーラーの効きすぎるシンガポール。
冷風が、冷汗をかいた胸や背中に痛かった。
私のポケットには、100ドル紙幣が2.3枚あっただけである。
私の怖い思い出、トップ20くらいに入る経験である。