先の記事に書いたが、自分がいかに幸運な人生を歩んでいるのかを知ったのは、三十路前後である。
そのきっかけとなった件は書けないが、それに類する本当に辛いことがあったのだろうと推測できる人たちの話を書いてみたい。
★プノンペン生まれのマダムと親
これは、以前記事にしている。
3人に1人は殺されたか、飢え死にしたと言われるクメール・ルージュ世界。
日本人では2人の生存者がいたと思うが、ここに出てくる人はカンボジア人であり、その奇跡的生還を果たした日本人とは関係がない。
話をしてくれたのは、私とほぼ同年のマダムだった。
が、脱出が小学生くらいの時だったためか、暑い、いや熱い船底での長旅の記憶以外は、あまりよく覚えていないようだった。
あるいは、実はかなり覚えているのかもしれないが、本人は覚えていないような話しぶりだった。
一方、親たちは顔を出すことさえ恐れていた。
ましてや、外国人の私には一言も話してくれてはいない。
ただ、うれしいことはあった。
何回目かの折、マダムに私がいい人であるようだと言ってくれていたらしいことだ。
クメール・ルージュの概要なりとも知っていれば、当時の話など他人にできるわけがない。
また、他人に対する印象などは言えない。
そう考えると、嬉しかった。
今はどうしているだろうか。
★朝鮮から逃げ帰った女性
その老夫妻とは、わずかの間しかお付き合いがない。
が、その方々にとっても、私自身にとっても、人生でそう何度もないような旅を通して知り合った。
で、ある戦争前後の小説の話になり、老婆がポツリと言った。
「この小説以上のことだってあるけどね」
そのあとに続く呟きをまとめると、こんな感じだ。
朝鮮から日本への帰還は怖かった。
多くが被害(たぶん女性特有の被害だろう)に遭った。
だから、頭は丸坊主にして身体中泥や炭を塗り、コモ(藁でできた敷物)にくるまって逃げた。
そんな風にして、九州の港まで生きて帰れたようだ。
その呟き以外は、寡黙な方だった。
★いまだによくわからないこと
これは上の話と違って、かなり身近なところでの話だ。
私には優しかったが、一部には鬼のように思われている婆ちゃんがいた。
確かに、怒っていることが多かった気がする。
が、こんなことがあった。
私が、その婆ちゃんの旦那が早くに亡くなった理由を聞いた時だった。
その婆ちゃんの顔が崩れ、目から光るものが流れた。
私はその婆ちゃんのそんな姿は、一生で2回しか見ていない。
あれは何だったのだろうか。
理由は聞いてはいけなかったのだろう。
結局、なぜ早くに亡くなったのかはわからずじまいだった。
しかし、とにかく言葉にならないことがあったのであろうことは推測できた。
本当に辛いことは、大声でベラベラしゃべったりはしないだろう。
少なくとも日本人は。
さらに、話の内容がころころ変わるなんて問題外だ。
そう、思った。
★ロシアがえり
ロシア帰りの爺さんがいた。
「ロスケ野郎が・・・・・・」
その言葉以外は、具体的な話はしてくれていない。
たぶん、話にできないような経験をして日本に戻って来られたのだろうと思った。
★タイの中国人
タイに逃げてきた漢人がいた。
子どもの頃見た日本軍兵士に対して、非常に好意的な見方だった。
悪いことは一切話を聞いていない。
私の記憶でも、日本軍が来て泥棒・強姦がなくなり住民が安心したという話は、昔から聞いていた。
だから、南京の話は最初から違和感があった。
★上海の日本人の子
子とはいえ、私より10歳以上年上だったが。
当時の決まりを破って、その方の家に行ったことがある。
もちろん外国人とバレない様に、借りた人民服を着込んでだが。
日本人の子としての苦労はあるようだったが、あくまでも明るかった。
それゆえ、悲しくもあった。
★上海の金髪人民服美女
これは街角で見ただけだ。ドイツ人のように思えた。
思わず涙が出そうになった。
日本人より大変だろうなと思った。