菅元首相の同志からの評価は、あまりに哀れに感じられたので、今朝の記事で打ちきりにした。
しかしながら、それで菅氏が元首相としての説明責任を免れたというわけではない。
自分のブログや国会で答弁した内容と、事故調査聞き取りの間における矛盾の理由、説明不足は、仮にも一国の首相という立場をされた方として行われるのが、政治家として当然だろうと思っている。
いや、政治家以前に、人間としての役目ではないだろうか。
各閣僚の評価から考えると、菅氏にこれを求めることは極めて難しいことが分かる。
しかし、これができない限り、いくら霊場廻りをしようが、いくら坊主になって座禅を組もうが、残念ながら安住の境地には至れないであろう。
ただ、記事にしていない幾多の閣僚や学者の評価から考えると、菅氏の場合の中にある精神的な安住の境地というものは、私の考えている安住とは全く違っている可能性が高いようではある。
そのような人生観をつくった土壌には興味があるが、全くの門外漢の私には理解できそうにない。
同時に、ブログにしてもアドバイザーが必要かとも思う。
我々のような一般庶民が、あることないこと、喜び悲しみを徒然に書きなぐるのとは、重みが違う。
どうも、そのあたりの自覚も薄いようだ。
今回の聞き取りにおける菅氏の性向に関しては、ご本人を除いて、政治家の見方はだいたい一致している。
これは多分一生治らない。
ある意味哀れではあるが、それは私やその政治家たちの見方であって、ご本人は違っているだろう。
こうした総理を作ってしまった原因は多々あるだろう。
しかし、私たちも反省しなければなるまい。