というか、平等とか平和という意味が分かっていないこともあるが。
たとえば、いま話題になっいる統一テストの学校別順位を公表することは平等ではないとか、競争心をあおるとかの意見があるが、私には公表しないことが平等なのか、公表することが平等なのかは判断がつかない。
個人的には、公表をしないことも大変不平等な考えだとも思っている。
また、へたな競争心をあおるとかいうならば、甲子園もオリンピックも意味がなくなる。
日本は金を何個とったとかいうことさえ不平等なことになる気がする。
これは冗談ではなく、どこかの学校では運動会に順位を付けないとか言っていた気がする。
私にとっては、ほとんど病気にうつる。
ところで、差別というのも難しい言葉だと思うが、差別反対を訴えている人が日本人やらを差別するのは問題ないことがよくある。
これまた、不思議だ。
あるいは、ことさら誰それは日本人ではないとか言った意見をする人が、実は差別はいけませんと言っていたりする。
これも、私にとってはほとんど病人である。
こんな文章を書くと差別主義者とか言われそうだが、差別の意味がよくわからないから反論もできない。
非常に少ないが、正義がどうのとかいう方々も、私には理解できない。
というか、わかる人などいないと思っている。
だから、正義がどうのと冗談で言うならさておき、本気でそんなことを書いている方がいた場合には、げっそりしてしまう。
アルカイダのトップを射殺したときに、オバマやクリントンは正義が勝ったと、射殺場面を見ながら拍手をしていたが、こういう正義感は私には多少理解できても、私とは別世界の話である。
ただし、正義とかいう言葉をためらいなく使う人たちには、私は同じ臭いを感じてしまう。
さて、話はがらりと変わる。
私たちは無意識のうちに、あるいは何も知らずに差別語を使っていたりする。
それはお隣の国が映画などで、ウェノムだのチョッパリだのと意識して日本人を差別しているようなことではない。それ自体が差別語であると感じていなかったりするからだ。
特に英語などでその言葉が使われていると、それは当然その国でも使われている言葉に近い音だろうなどと勝手に解釈してしまっている場合もあるだろう。
そんな日本語を何個か拾ってみた。
日本語と、現地人が自国などを呼ぶ音は全く違っているものだ。
これは、日本語あるいは英語などの国際語自体が差別語であるためでもある。
★スペインは差別語とは言えないかもしれない。
参考までに、中国普通語での表示もあげておこう。
中国語の場合には、日本語のカタカナのような文字は存在しないから、最近の言葉を除いて、すべて漢字表記となる。ただし、その表記にはアメリカを美国と表現するように、かなりイメージや相手国との関係感が強く表れる。