数日前に、つい最近付けられた『百済観音』という名前が定着してしまった、製作年代、製作地方不明の像について述べた。
この例のように、現在の日本には百済関係の事実関係に間違いや捏造の類いのある話を、時々耳にする。
冗談かと聞いていたが、当人は本気でそう思っている場合があったりする。
さて、今回は、そんな巷で噂になっていることや、一部マスコミなどは事実として報道している二、三を取り上げ、誤りをただしてみたい。
★私の記憶違い、思い込みがある可能性があり、誤り等ご指摘いただければ幸いです。
過去にいただいた何人かの方々のご指摘は、たいへん参考になりました。
ありがとうございます。
この場を借りて、改めて御礼申し上げます。
巷の話に関する疑問や誤り
★★くだらない
一部では『百済ない』、つまり百済の物品ではないから粗末だ、との由来話がある。
しかしながら、古文において『百済なし』に類似する表現は知らない。少なくとも私は見た記憶がない。
百済は、倭王を安東大将軍または安東将軍などと崇める立場、つまり倭国の従属下であったのに、『百済なし』という言葉が生まれたのは不自然だ。
私の考えでは、『領(くだり)なし』が転じて生まれた可能性のが高いと考えている。 つまり、ちゃんとしていない。そろうべきものが不足している、駄目だという推測である。
★★前方後円墳などが半島にあり、日本人は半島南部からの移住者だ。
話が全く逆である。
この可能性のないことは、何度かDNAを調べた結果からもあり得ないことと説明しているが、別の見方からしても誤りであることを書いていこう。
あちらにある前方後円墳が、円墳がくっついたものだという研究発表があったと記憶している。
それ以外にも、あちらの副葬品から考えて、向こうから日本への移動はまずありえない。
副葬品には、勾玉でヒスイ製のものがある。
しかし、ヒスイは半島では採れないし、その加工施設の存在もしらない。
科学的分析がされたかどうか知らないが、ヒスイは我が国糸魚川付近の産だろう。
あちらの飛び地にあった日本では、葬儀も日本式にしたかったろう。
それゆえ、日本から貴重な品々を持ち込んだに違いない。
副葬品に限らず、玄室や祠などにベンガラを使うのも、紀元前からの日本の作法。
また、こうした古墳は、日本の半島飛び地近辺に限られていたのでは?
さらに、三國志などの記述を見ても、倭国・倭人と半島人の記載は大きく異なり、魏の郡ではない半島南部に関しては、実に田舎扱いの記述ではなかろうか。
例外は、半島飛び地の倭人ぐらいだと記憶している。
ずいぶん昔に一度見ただけですから、記憶違いがあるかもしれません。
ただ、倭の記述が10としたなら、あちらの記述は1か2くらいだなとのイメージは残っています。
なぜか、話が逆転しているなあと感じた。
だいたい、百済・新羅が一時期は日本の従属国であったことを教えているのだろうか。
従属下だったから、半島から日本に朝見に来たりしていた。
だから、大化の改新で三韓の使者が天皇に拝謁しに来たという作り話での事件も成り立つ。
どうもこのあたりの話が、ねじれて、あるいは消されているやに感じている。