今回は、邪馬台国の位置を、奈良あたりを中心とした畿内とするものについてだ。
この説のポイントは、奴国付近から、投馬国まで船で20日。投馬国から邪馬台国までさらに船で10日、陸路を1ヶ月というあたりに注目したものだ。
このルートには、大きく3つのルートが考えられる。
簡単にまとめてみよう。
①山陰ルート
北九州→(船で20日)→出雲国→(船で10日)若狭湾→(陸路1ヶ月)大和付近
②山陽ルート
北九州→(船で20日)吉備国→(船で10日)播磨国付近→(陸路1ヶ月)大和付近
③四国・紀伊ルート(神武ルート)
北九州→(船で20日)鳴門付近→(船で10日)紀伊熊野付近→(陸路1ヶ月)大和
確かに、北九州説よりは日数的には合点がいく説だ。
が、このどの説にも致命的な欠陥がある。
それは、魏志には、投馬国へ『南』へ船で20日。さらに『南』へ船で10日、陸路1ヶ月とあるからだ。
上の説はすべて、『南』ではなく『東』である。
北九州説は主に東大が、畿内説は主に京大が支持していた。
では、この方角の決定的違いをどう考えて、『東』の畿内と考えたのだろうか。
その主な理由は2つある。
①写本ミス説
写本をする場合に、『東』を『南』と書き間違えた。
②古代地理感説
昔の大陸の地図では、日本列島は現実より90度くらい傾いて描かれている。 そのため、西日本から関東あたりまでは、北九州からは南になる。従って、当時の科学では畿内が南であることが常識であった。
うーむ。①の写本ミス説は受け入れ難い。仮に事実でも、あまりに推論が激しく何ら根拠がない。
対馬→対海、一支国→一大国を写しミスと考えるのとは、俄然性が全くちがう。
②は、確かに可能性はある。
だが、後に出てくる本文を考えると大きな矛盾が出てくる。 それは、帯方郡からの距離の問題だ。
その話を続けるには、いささか疲れた。
今日は、これまで。
1;日本は九州から南に伸びている。
2;朝鮮半島は、アフリカ大陸より広く、アラビア半島やアフリカ大陸と比べると100倍以上拡大されて描かれている。
(ピョンチャン冬季五輪の地図を思い出す)