【朝鮮半島の歴史】5 百済 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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さて、百済の話に入る前に、もう一度4世紀~7世紀くらいの半島付近の国を確認しておきましょう。

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年々境界線が変わりますが、おおざっぱに見て、北朝鮮から満州が高句麗、韓国の西半分が百済、東半分が新羅です。

前回、高句麗は満州族と述べましたが、今回の百済も、高句麗と同じ朱豪を先祖にもつ夫余族という伝説があります。
実際、中国に対しては国号を余とし、夫余族出身であることを主張しています。
歴史学者の多くは、百済は馬韓の伯済国が発展したものと考えています。

伝説では親戚のはずの高句麗とは犬猿の仲で、都度中国(東晋)や日本(倭)に軍事協力を求めています。
その感謝のしるしとして倭に送ったのが、【偶然?シリーズ】にも出てきた七支刀です。

しかし、5世紀末、高句麗の攻撃に百済は一旦滅亡します。
2、3年後すぐに再興したものの、中国(南斉~唐)と協力関係にあったが、同盟国の唐が突如敵の新羅と同盟国になったこと、百済のバックアップをしていた日本が白村江で敗退したことなどが響いたのか、西暦660年に新羅に負けて、その歴史を閉じました。

百済からは、『論語』『千字文』を伝えたという王仁や五教博士らが、日本に渡ってきています。

明治まで続く、陰陽道の原始的なものも、百済から伝わったらしいですね。

なお、現在『百済観音像』という名前をつけられてしまった観音像は、この百済と関係がある証拠は全くなく、最近付けられた名前のようです。