
この歌も歌手も、有線放送取り止めという報道があるまで知らなかった。
早速、その過激と報道されている歌詞をみる。
非常に深いところを突く歌詞だ。
今の日本では、これを“過激”と取るか、取ることにしたかだろう。
先の記事同様、何らかの自主規制を働かせたことになるのだろう。
しかし、矛盾が多い。
歌詞はいけないが、現実には盲目を決め込むいやらしさが頭をよぎった。
ただ、ひねた考えをすればこれもある作戦だが、そこまで疑ってはいけないだろう。
ところで、日本は“草木ものいふ国”と言われた。
また、“以心伝心”という言葉もある。
古代には名前を名乗ることは、婚約を意味する場合もあり、また命懸けでさえあった。
この風習はマヤにも見られたが、いずれにしても言葉に力を与え、感じ、それにより自分も縛られることを意味するだろう。
つまり、日本人は今のフランスほどではないにしろ、言葉を大切に扱ってきたと同様、柿本人麿や在原業平、あるいは川柳、だじゃれ文化をみれば一目瞭然だが、言葉を遊びの道具にも使ってきている。
この言葉遊びの精神は、おそらく本来のイスラエル人、つまり世間で言われるところの世界経済を牛耳っているとか、ノーベル賞の半分を受賞しているとか、あるいはマルクスなど理論派とかではないイスラエル人たちにも、広く通ずるものだろう。
ただし、最近、とくにゆとり教育とかが盛んに言われはじめ、日本人白痴化を推進する動きが活発化したあたりから、病的な言葉アレルギーが出てきた。
戦後すぐにも、【米国主導】で作られた反米反日組織などにより、多少のことば狩りはあったろう。
私は大学生になるまで、それらに無頓着な田舎に生まれたから、ことば狩り自体知らなかったが。
というのは、それらは田舎では当たり前に使っていた言葉だし、そこに差別的な意味合いなど全くなかったからだ。
実は、つい最近も現在住んでいるあたりで、老人がごく自然にそうした言葉を使っているのを耳にした。
と、同時に、私は自分に愕然とした。
かつては、なんら変てつもないその言葉が、私の中で耳障りな音になっていたことに気付いたからだ。
身をもって、教育の怖さを知った。
私自身が、言葉狩り推進者の耳になっていたからだ。
この体験を基に、お隣の異常な反日感情を考えると、多少理解が進む。
事実がどうの、理論がどうのではない。
生まれた時から嫌悪すべき存在とたたきこまれると、その言葉を聞くだけで虫酸が走るようになるだろう。
お隣の教科書・歴史の内部構成比には驚かされる。
古代から屈辱と寝返りの繰り返しで、寄らば大樹の陰だったから、過去をファンタジーで飾り、事実を教えない政治教育もわからないではない。
誇れる史実がほとんど無いからだ。
だから、歴史の6割以上が戦後と反日教育教科書になる。
気持ちは分かる。
が、やはり、事実を直視する勇気があればなあ、と甘い希望も抱いたりする。
まあ、ほとんど不可能な願いだが。
同時に、日本の義務教育でもほとんど破壊された、地理や歴史を建て直して欲しいものだ。
米国主導で作られた反米反日組織。
今の姿が米国の読み通りだったなら、まだまだ日本は赤ちゃんかも知れない。
しかしなんですな。
ボディペイント好きで、暴力を肯定し逮捕者まで出すところの応援を、公共放送あたりがする国というのも珍しい。
裏でどうなってるのかは分からないが、先進国と言われるところでは聞いたことがない。
そんなあたりを絡めて、スガさんナイスショット。