
そこは実に不思議な空間なのだ。
大都会と鄙が、現代といにしへが同居している。
言葉を聞く限りにおいては、日本であって日本ではない。

なぜか、腹塩だの偶天盛元などといった言葉が多い。 これは実に不可思議である。日本に居住する民族、使われている言語から考えれば、こんにちはに次いで安女馳世やら新位葉男あたりが聞こえてくるはずなのだ。

が、ここで困夫世とか安仁王端無似迦なる言葉を話す人たちは、皆無に近い。私は先日初めて見た。
姉意方は結構聞くのに、問不地は稀にしか耳にしない。
これまた不思議である。
むしろ、鯖衣鯖衣だの山級なんていう言葉のが多いのだ。

ある花に止まっていたシジミの写真を撮ろうと腰を屈めたら、ヒラリと逃げられた。

と、背中から声がした。
「ぺっ医者んと!」
はあ?と振り返ると、アイダホ州あたりで35町ぶ3反くらいのトウモロコシ畑を持っていると思われる老夫婦が、実に穏やかな笑顔で私を覗きこみ、肩と眉をを少し上げ、口をわずかにへの字にして両手を広げている。
ははーん。そうか、そうか。
医者に注射を打たれて、「ぺっ、医者なんて」の気持ちになりなさい。
そう言いたかったのだな、と理解した。
しばらく歩くと、山草とはいえ、いやいや山草なるがゆえに気高い雰囲気の花が目に飛び込んでくる。

「ケツ貸せ!?」
ハスキーボイスがした。
おいおい、マドモアゼルがそんなはしたないこと言いなさんな。
そう注意したかったが、かわいいので我慢した。
少しばかり奥に入る。
と、足元にはあかずきんちゃんの忘れたこうもり傘がある。

さっきのお嬢さんが、藪の中で腹這いになっている危ないジジイである私に近づいて来て、すっとんきょうな声を上げる。
「取れ、取れ、美やーん」
いや、いくら美しくかわいいと言っても取ってはいけないよ。
そんな目で私は彼女を見た。
と、今度はこうだ。
「メールしぃ!」
いやあ、自分の子どもくらいのお嬢さんからメルアドを訊かれるとは思わなかった。
しかし、いささか言葉が悪いなと思ったのだった。
隣にもまた、一風変わったやつがあった。

おそらく、年老いた魔女が忘れたうちわだろう。
季節も間違ってしまったようだ。


桜が笑い、紅葉したヤマツツジには花が咲いている。
時を忘れ遊びほうけていたら、「爺さん、カラスが鳴くから帰れ」と叱られた。

後ろ髪を引かれる思いで、私はその不思議空間を後にした。


「凡々、親ー父」
さっきの少女の声がする。



