
ギャップというものは、ある先入観に基づいて予想していた内容と、現実に生じた、あるいは感じた内容とに大きな差異がある場合のことを意味するものだろう。
こうした思惑との違い、見込み外れが人を進化させてきたという考え方もできるに違いない。
ところで、かつて“タタリじゃあ!”という言葉が流行ったことがある。
これは多分に角川映画あたりの影響が強いが、たたるという概念もある意味ギャップという観念に近いところがある。
災い転じて福となすの反対版、と言い換えできるやも知れない。
何らの理由により身を守るはずの行為が、災いとなって降りかかってくるわけだ。
話はまたそれるが、“タタリ”という字は“祟”と書く。
これについては井沢氏も指摘しているが、“崇”という字に非常に似ている。
祟るから、畏れ崇めるのだろう。
さて、ここからは私の理論になる。
タタリとは名詞である。
当たり前だろうって?
いや、私が言いたいのは現代日本語のタタリとかタタルのことではなく、少し古い時代の話だ。
実は現代日本語では動詞であるタタルも、やはりタタリ同様名詞なのである。
というか、この2つは同一単語だったのだ。
タタリあるいはタタルとは、多田羅のことだ。
多田羅とは鉄、特に製鉄に関連する言葉である。
鉄は、当時最新の武器であり神でもあっただろう。
この最新兵器を、草木物言う秋津島瑞穂国にもたらしたのは誰なのか?
それこそ、タタルなのだ。
タタルは普段は青白い顔で冷たいが、怒り出すと熱く燃えた鉄の如く火花を散らす。
だから、多田羅であり、崇めると同時に祟られるのである。
そのタタルとは?
現代日本語ではタタールとも呼ばれる、大陸西方の民たちだ。
彼らは崇められ神にもなったが、同時に祟りを及ぼす対象としてもまた、その鎮魂のために神となって行ったのである。
古くから伝わる宮中行事相撲、石上神宮の七支刀、伊勢、宇佐神宮の存在自体にもまたこのタタリと深く関わっているが、これを考えると女性飛行士のコスチューム写真が、全く別の写真と同一だというくらい難しい話になるから、止めておこう。
ちなみに、日本で一番崇められ祟りを及ぼすことを畏れ、恐れられているのは出雲大社である。
出雲大社は、今や日本最大の縁結びの神である。

これもまた、ギャップと言えるだろう。