しかし、高校、あるいは中学受験を控える小学生なら知っている通り、『魏志倭人伝』なる書物は存在しない。
これは、ビルマ(ミャンマー)に、スー・チーさんとかスーチーさんとかいう名前の将軍の娘である政治家が存在しないのと同じく、一種のまやかしではあるが、前者ならば義務教育、後者ならばマスコミを通じて広く流布されると、やがてそれが事実となっていく。
通称『魏志倭人伝』と言われるものは、より正しくは『三國志』の中の『魏志』巻三十 にある東夷伝の一部『倭人』という条のことをいう。
非常に長ったらしいから『魏志倭人伝』としてしまおうということにした。
つまり、金の卵をキンタマと縮めて読む芸能人言葉のようなものだ。
まあ、これは笑って許される範囲だ。
が、スー・チーさんとかスーチーさんとかいうのは良くない。
もともとビルマ語をカタカナにするのは無理があるが、これはそれ以前の話だ。
魏志倭人伝やキンタマよりひどく、失礼である。
例えば、大島優子を島ちゃんとかユーちゃんとか呼ぶことがある。
が、これは仲間同士だから許せるものだ。
もし、アブラハム・リンカーンというとある国の名士がいて、外国人が彼のことを、アブだのハムだのカーンだのと公式の場でも呼んでいたとしたなら、また、その国での意味を知っていたとしたなら、かなり気分を害するだろう(注:相手国においては、アブならばけして悪い意味ではないが)。
アウンサンスーチーさんの場合も、これに似ている。
スーチーという名前は、芸能人的な、キンタマ的な略名であり、ビルマではアウンサンスーチーという名前は、途中で切ってはならない名前のはずである。
