
これは、私が尊敬するあるブロガーさんの記事(象の義足)に触発されて思いついた話です。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
陳がそこへ足を運んだのは、もう一度ノンタブリのドリアンを買うためだった。
しばらくはこの国ともお別れだ。叔父の住むトロントで、ここの味わいあるドリアンを求めることはできないだろう。
陳は、船着き場から少し離れたところで、トゥックトゥックを降りる。
この間まで乗っていたジャガーは、もうない。二束三文で地元のディーラーに買われていった。
陳は大きく息を吸った。
ドリアンとランプータン、パイナップルの香りの中に、ニンニクを炒めた匂いが鼻と胃の粘膜を刺激する。
ゆっくり息を吐くと、急にお腹が大きな音を立てた。
ポー(叔父さん)靴磨き、どう。
安くしとくよ。
背中を軽く叩く者がいた。
まだ十歳にもならないであろう、浅黒い肌の子である。
おそらくイサンか北部の高地、あるいはラオスあたりから『天使の住む都クルンテープ』バンコクに出てきたのだろう。
いくらだね。
チェッドゥバーツ(約20円)。
ううん、叔父さん優しそうだしタイ語話せるからハーバーツ(約15円)にまけとくよ。
陳は、子どもに手を引かれて、今にも壊れそうな椅子に座った。
グーッ。
また、お腹が鳴った。
あれっ。
叔父さん、お腹すいてんの? 朝飯ちゃんと食べた?
ほら、これあげるよ。
靴磨きは、黒い墨のついた手をよれよれの布で拭いて、半分に割れた揚げパンを差し出した。
陳は一瞬目を吊り上げた。が、すぐにチャオプラヤの流れの目に戻って、嬉しそうにそれを受け取り口に入れた。
叔父さん。
ダメだよ。ちゃんと朝飯は食べなくっちゃ。
あっ、それから靴磨きのお代はシーバーツ(12円)にまけとくよ。
靴磨きは少し胸を張って言った。
少年の名前はニッポンと言った。
名前からすると、アユタヤあたりの子かも知れない。
また、俺がここで会社を作ったら、こいつを呼ぼうか。
陳は一瞬、そう思った。
いや、止めておこう。
この子の幸せを摘み取る権利は、俺にはない。
会社という仕組の中で、少年は経済的には、今よりはるかに豊かになるであろう。しかし、ただそれだけだ。心が貧しくなってしまうかも知れない。あるいは、擦り切れたボロ布になってしまうかも知れない。
この子は、このままの方が幸せかも知れないな。
手のひらに滲む揚げパンの油をハンカチで拭いながら、そう思ったのだった。
陳は、ドリアンを買わずにノンタブリを後にした。
あの子が1年働いても、とても得られないであろう食べ物を買うことは、あの子のくれた半欠けの揚げパンに申し訳ないないような気がしたからだった。
彼は今、毎日の夕げに10万単位の金を使っている。
客を迎える時には、100万を超えることも珍しくないようだ。
が、あの半欠けの揚げパンの味は、忘れたことがないという。
