おめえは、天気図が読めるかい?
男が唐突に言った。
はあ?
後の言葉が続かない。
199●年9月8日の天気図を見てみろ。
いや、僕は法学部でして、そっちの方はさっぱり。ましてや、そんな細かい日付の天気のことなんかは、全くわかりません。
アホ!
何のためにアレが付いているんだ。若いの!
男は、吸煙器を指差した。
ちぇっ。何てこった。
この男は、盗聴マイクの位置まで知っているのか。
ほら、そんな泡を食っている暇があったら、そのノートパソコンのショートカットをクリックしてみな。
そろそろ、裏方がその日の天気図を探し当てた頃だ。
あちゃ。
こっちの手の内をすべてお見通しのようだ。
確かに、偏光ガラスの向こうには、盗聴マイクから流れてくる一言一言を拾い、声調分析、つまり嘘発見器にかけると同時に、男から出た言葉の関連事項を並行調査している。
たぶん、声調分析にかけられていることもわかっているのだろう。
聞きしにまさる、恐るべき相手だ。
僕はやっと、とんでもない山に踏み入れていることに気づいた。
どうだ。
天気図が出てきたか?
ええ。
どうだ。凄いだろう。
はあ。
僕は、自分でも嫌気が差すほど間延びした返事をする。
なーんも、気付かないのかい。ぼうや。
げっ。
今度は、ぼうや扱いかい。
僕は自尊心を傷つけられた怒りに顔を赤らめながらも、その天気図に見入った。
画面には、何時の天気図が載っている?
男が訊く。
9時ですが。
ああ、それじゃ、南過ぎてよくわからんな。
おい、裏方。22時のやつを送ってやってくれ。
男は天井に向かって声をあげた。
どうだい。
そんなら、文系のおめえさんにも分かるだろ。
男は、不敵な笑みを浮かべた。
はあ。南の方に大きな渦。あっ、台風ですね。
うん。目は小笠原諸島・父島の北東、およそ200キロメートルあたりにあるはずだ。
男は、まるで天気図を見ているかのように言う。
はあ、だいたいそのあたりかと。
と、僕は言ったものの、あまり自信がなかった。
僕たちはゆとり教育のおかげで、小中はほとんど地理の勉強をしていない。
高校は私立で、早くから国立私立・文理分けがされていて、僕は日本史と倫理を選んだから、地理の知識はまるで無いに等しいからだ。
だから、小笠原諸島の名前くらいは知っていても、父島がどのあたりか、皆目見当がつかなかったからだ。
男が言葉を続けた。
で、中心気圧はどれくらいだ?
えっ?
文系の僕には厳し過ぎる質問だ。
935ミリバール。いや、今はヘクトパスカルっていうんだっけな。
どうだ? そのくらいだろう。
あっ、はい。
確かにそれくらいですが。
で、ここからが面白いところだ。
いいか。翌日の昼の天気図を見てみろ。
えっ?
私は絶句した。
はははっ。
気付いたかい。
は~。
僕は、半日後の天気図と初めのやつを並べて、しばらくの間フリーズしてしまった。
へんだよな。
男が目を細める。
いくら文系の僕でも、その2枚の天気図の異常さはわかった。
後の天気図から、台風が消えている。いや、正確には消えているのではないが、勢力が極端に弱くなり、熱帯低気圧と書かれているのだ。
なあ、へんだろ。
935ヘクトパスカルといったら、10年に1つレベルの猛烈な台風だ。しかも、九州方面ではなく、小笠原、つまり関東の南海上にやってくるなんざ、富士山測候所開設以来の、関東を襲うかも知れない巨大台風。
それがだ。
翌日には、やたら弱っちい熱帯低気圧になっちまってる。
変だと思わねえかい?
男が僕の顔を覗き込んだ。
ええ。確かに。不思議なことです。
はははっ。
だろう。
だからな、その天気図はインチキなんだよ。
男が、わけのわからぬことを言い出した。
鼻ったれには、わかんねえだろうな。
じゃあ。ヒントをやるか。
いいか。この巨大台風がやって来るとされた次の日、東京で何があったか、調べてみな。
次の日?
ということは、199●年9月9日。
あっ!
えっ!
コンピュータを開くまでもなかった。
検察官なら、誰でもその日を覚えているだろう。
が、それと、この天気図とがどう関係するのだ。
フッフッフ。
男が不気味な声で低く笑っている。