記事、コメントは書かないつもりでしたが、
悲しみやつらさという感情からとうに離れたはずなのに、電車の中で鼻水をすすりがちになりますので、不謹慎、非難覚悟で、しばらく記事を書くことに集中させてください。
この年で、電車の中で頬を濡らしたり、鼻水をすすったりはしたくないのです。
お嬢様の母が田舎のあばら家で、何を悩み、何を望んだか、そして我が子をわが身体の一部として信じて疑わぬことは、最近理解だけではなく、納得もできるようになりました。
さらに、わずらわしいとさえ思えたその愛の形は、悲しみや哀しみを怒りや破壊につなげてしまう人もいることを知るに及んで、いかに桁違いに素晴らしいものであるのかを実感するのです。
家に着くまで、公共の場での爺の見栄ゆえの不謹慎にご理解あれ。
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いつの写真かは分からない。
多分、戦後すぐ後のものだろう。
母が大切にしていた宝箱には、確かに美しく、満面の笑みを浮かべた、当時としてはかなり派手だと思われる水着の母がいた。
母の父、つまりわたしの母方の祖父は、地元では顔役的な男だった。
彼は息子を抱いたりはしない、厳格で厳しい親だったらしいが、私にとっては、限りなく優しく、面白い人だった。
その弟、つまり、私にとっては大叔父にあたる人は、もしこの世の中に神とやらがいるのなら、私の知る限り、最も神に近い男だった。
彼は小さいときに病に侵され、最期まで独身だった。小さい頃は天童とさえ呼ばれていたようだが、病にかかり言語中枢、顔面神経をやられ、私の知っている彼は、寡黙で見方によっては般若の形相であった。
が、私は彼以上に人らしい人を知らない。
いけない。彼のことを思いだしたら、視界がぼやけてきた。
彼については、また別の機会に記事にしよう。
母には、神様のように崇める先生がいた。
教育界ではかなり大物になったであろう、その先生を、15歳の時に垣間見たことがある。
私が子どもの頃は、オモチャは買うものではなく、作るものだった。
しかし、そんな中に不似合いな、ロス・アンジェルスディズニーランドのオモチャが2つあった。
一つは、今や多くのメーカーが製造している立体像の見える双眼鏡のようなものであり、もう一つは、ぶつかると自動的に方向転換する車である。
母が声を出して泣いたのを見たことがあるのは、一度だけである。
それが多いのか少ないのかは知らない。
その時、当時まだ家にいた叔父が、私と弟の身体を包み、その声、その姿を見えなく、聞こえなくした。
母が自費出版の形で自分の人生を書き綴った本を出したとき、地元の新聞などではちょっとした話題になったようだ。
とにかく、田舎のばあちゃんが本を出すなんざ考えられない世界だからである。
有頂天になりがちな母に、私は率直な意見を述べてしまった。
というのは、その自叙伝の中に、見る人が見たらすぐに感じるトゲやほころびを見つけてしまったからである。
私としては親切心のつもりだったが、今思えば、いささか酷であったかも知れない。
母は、ある意味かわいい女だった。また、耐える女でもあった。中に熱いものを秘めながら。
一昨年、母が私に黒い縁どりの写真を見せてくれた。
さらに、いい年こいて貧乏生活をしている私に、長男として恥ずかしくない香典(自分の葬儀用に)の心配までし、そのために
だめだ。
記事に集中しているにもかかわらず、鼻水が垂れてきてしまいました。
では、しばらく、ごきげんよう。