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Cutting on Action

映画の感想など

「完成までの道のり」と書いてしまったけどもし完成しなかったら私は死んだと思ってください。

 

レクチャーノートの価値というのは何だろう? ということを考える。こんなどこぞの馬の骨とも知れない名もないアマチュアでも、やはり何か書くからには、いいものを書きたいという意思はある。

 

これは結構昔から思っていることなのだが、PDFでもいいし印刷したペラ紙でも、ごついハードカバーでも何でも構わないが、ひとまず本の体裁で売られているものは、読み物としての面白さを備えていてほしいと思っている。それは本だからだ。だから本として読めるものであってほしい。もちろんそれらは何かしら手順や手法を授け学ばせるという解説書としての機能を果たす義務はある。しかしそれと同時に「読める」ものであってほしい。われわれが松田道弘の著作を繰り返し読んでしまうのは何より文章が「読ませる」からだ。僕が奇術書の中でとりわけ好きなCard FictionsとかCard Magic Designsといった名著たちも、何より読み物としての面白さが群を抜いている。

 

だから、そういう意味において面白いノートを自分でも書きたいと願っている。ただしその読み物としての面白さというのはあくまでレクチャーノートの、解説の枠組みの中で展開するべきものであって、例えば書き手だけが理論と呼んでいる思い付きめいたエッセイをだらだら展開させるのに何ページも費やすようなことではないはずだとも思っている。先に挙げた書籍などは、エッセイや考察に割かれたページもあるが、それが主体なわけではない。

 

別に考察や概念的な議論主体で書かれた本を否定したいわけではない。ただ、レクチャーノートが提示しうる面白さというのはそういうことだけではないはずだと思う、じゃあそれがなんなのかと言うとこれだとひとことで言いきれるわけでもないのだが、伝えたいことをできるだけ的確に随所に書き込んでいく、ただし押しつけがましくなく、ということなのだろうか。何が正解なのか、よく分からない。とりあえず自分にとって興味深いものは他人にとってもそうであるはずだということを信じるしかない。