映画が接近可能な限界「愚行録」 | Cutting on Action

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映画の感想など

※映画の内容についてがっつりネタバレしています。

 

 まず見慣れた日本の光景が、これほど「画になる」舞台装置として映画的な空間を構成していることに驚く。カメラマンはポーランド人だそうで、監督が本当に信頼できる人に依頼しているのだろう。それにしても淀んだ空気まで伝わってくるような……これはロケーションも優れているのだろうが、閉塞的で息が詰まりそうな印象が全体を支配している。

 

 そんな息苦しい画面の中で繰り広げられるのは、映画冒頭の回想シーンにおける、サラダを取り分けるのがどうのこうのという極めてありふれていながらも、あらためて映画のスクリーンを通じて見せられることでどこか滑稽に見えてしまうような応酬に始まる、いかにも日本的な人間関係を基盤とした日本的コミュニケーションという茶番である。妻夫木聡演じる雑誌記者は、生気のない目に鈍い光をたたえながら、口の端にほんの少し笑みを浮かべてその茶番を観客とともに見つめることになる(しかし何という妻夫木聡の正しい使い方だろう!)。

 

 物語を追うにつれ、観客は彼が単なる傍観者などではないことを知ることになる、というか彼は傍観者でいられなくなってしまうのだが、それが決定的になるシーンが白眉である。カフェの向こうで唐突に、そして静かに起きる殺人は衝撃的だ。

 しかしもっと衝撃的なのは、どう考えても物語の決定的なピークに持ってこざるを得ないその行為を済ませた後で、彼が以前と変わらない様子で、生気のない暗い目をしたままたたずみ続ける点にある。その姿が恐ろしい。衝動的な八つ当たりにしか見えない犯行でありながら、彼は他人に罪を擦り付ける事後工作を行う冷静さまで見せる。その工作の材料は映画のかなり前半で手に入れたものである。この伏線は言わば『シャイニング』におけるあの小道具、ひたすら同じ文章がリピートされ続けた原稿と同じ機能を果たす。主人公の様子はずっと変化していない。とすれば、彼はいつから狂っていたのか……? そう言えば、様々な登場人物による嘘がところどころに現れる物語であったが、実際に観客まで欺くような嘘をついたのは妻夫木聡ただ一人だった(バスの中での足が悪いふりと、妹が産んだ子の父親を知らないという発言)、という事実に思いいたる。そう考えたとき真にそら恐ろしいものがこみ上げてくる。

 

 ところで、殺人の描き方から黒沢清を連想した人は多いと思う。あのシーンからはCUREのラストなど連想させられるが、何より画面において、手前→奥という方向にレイヤーを生み出すガラスの存在がその印象を決定的にしているのだろう。

 カフェやバス、車の中、留置所の面会室、あるいは殺人が起きた一軒家におけるシャワー室の半透明のカーテンなど「透明なガラス」あるいは「半透明の遮蔽物」という一連のモチーフに注目してみたい。その向こう側というのは我々に手出しのできない領域である。だからこそ殺人はその「向こう側」で起きる。我々は凶事の発生と進行をこちらから覗き見るだけで、手出しのしようがない。それはわれわれには理解できないし、理解することが許されない彼岸なのだ。

 

 基本的に映画というのは「ふだん見ることができない空間にカメラが入っていく」という性質を持つメディアである。本作でも、日常ではおいそれと目にすることはない惨殺死体が転がる一軒家をさまようカメラのショットなどが挿入されているが、しかしそこでもシャワーを浴びる殺人犯の姿は不透明なシャワーカーテンの奥に秘匿されている。ミステリーの都合? もちろんそうなのだが、それと同時に、そのショットは、奥にいる「彼女」のことを観客が理解できる段階にはまだ至っていないということを伝えてもいる。シャワーカーテンの向こうは完全に「あちら側」の世界である。

 このようなレイヤーを生み出す装置というのは、日常的に見ることのできない空間に視点を侵入させる映画という表現において、あえて侵しえない空間を生み出す役割を果たしているとも言えるだろう。つまり、カメラ=神の視点=観客の視点にも、侵犯の許されない領域が存在する。それはガラスやシャワーカーテンといった舞台装置によって画面に示されるだけではなく、例えば過去に起こった出来事のなかで最も衝撃的な部分(父親による性的暴行、一家惨殺)は満島ひかりの台詞を通じて語られるだけで、決して回想の形を取って映像で表現されることがない。観客はそれを見ることすら許されていない。

 前半では不透明な幕の向こうに身を隠していた満島ひかりだが、彼女に最もカメラが接近するのは何本もの手が彼女の身体を覆うシュールなショットである。耳を澄ませると、血を洗い流すシャワーの音が聞こえてくる。それは彼女の内面で響いている音である。ここでカメラは物理的な肉体を越えて彼女の精神にまで接近し、我々は非現実的な映像表現を通じることでやっと、彼女が触れてきた業と地獄の一端をつかのま想像することができる。

 後半において留置場の面会室で兄妹が会話するとき、切り返しショットにおいてもはや二人を隔てるはずのガラスは存在しないことになっている。彼ら――呪われた血と罪の秘密を共有する彼らはともに「あちら側」の人間であるゆえに、侵犯不可なはずのガラスを越えて通じ合える。

 

 映画の最後で、ゆっくり動きながらバスの乗客の姿を捉えていき最後に妻夫木聡を映し出すというショットは、一見して映画の冒頭と大差ないように思える。しかし冒頭でバスの窓越しに彼を捉えていたカメラは、今ではガラスを越えてバスの車内から彼を映し出している。彼の物語をここまで追ってきて、その業の一端に触れたことで、観客はより近い位置から彼を見つめることを許されたようである。これで、観客と彼を隔てる幕は今や最後の一枚だけになった……スクリーンという決して超えようがない第四の壁である。死んだような目を鈍く光らせ、日常的な光景の片隅で市井の人々に交じってひとり静かに狂っている彼はどこへ向かうのだろうか? それはもはや、観客のあずかり知るところではない。