ブログでよく目が悪いと話をしてますが、今日は私の目の視力についての話をしたいと思います。
私は小学校の頃は、両眼とも1.2とか1.5とか、まあ目が良い方でした。
それが小学校6年の時に、事故で右目の視力を失いました。
それでも普通に生活していたのですが、歳もとり、定年退職して、数年したころ、今度は目の病で視力を、かなり失い、視覚障害者となりました。
ちょっと長いですが、いくつかに分けて、話をしたいと思います。
その1
「ここはどこ、何でこんな所にいるの?」
3日間意識不明で、やっと意識が戻った時、僕は祖母にそのように聞いた。
「ここは病院だよ、厚太郎は屋根から落ちて、死ぬか生きるかの、瀬戸際だったのだよ」
へえ、そうだったのか、全く知らなかった。
「今、何時?」・・・
「朝の9時頃だよ」
「大変、学校に行かなくちゃ」
「何を言ってるの、学校へは行くどころの騒ぎではないよ」そんな会話を祖母としたことを覚えている。
「厚太郎は医者にサジをなげられたのだよ」
その時小学6年だった僕は、医者がサジ(スプーン)をなげて、何をするか意味が解からなかった。
「サジを投げてなにするの?」そんな事を祖母か母に聞いた気がする…
医者には殆ど望みない、生きたら奇跡と言われていたようだが、それでも母は必ず生きると信じて、中目黒の正覚寺まで家から15分位の道のりを、深夜に毎日歩いて通いお寺さんにお願いしていたそうだ。
いまの時代ならば深夜でも、中目黒あたりは、かなり人通りもあるだろうが、60年前はこの付近は道も暗いし街灯も少なく、深夜、人通りはほとんどなかったことだろう。
特に女一人で歩くのは、訳ありの人だろう。
勿論母は訳ありだったのだが、当時深夜の女一人歩きは、恐いと言われていたらしく、母は「私が通ると男の人は、道の端に避けて通る」などと言っていた。
実は小学校6年の9月15日、屋根の上で遊んでいて、鬼瓦につかまって身を乗り出して下を見ていたら、鬼瓦を留めている針金が切れ、鬼瓦ごと下のコンクリートの引き石に、まっ逆さまに落ちてしまった。
そして、これは怒られると思い、僕は立ち上がりながら、そのまま玄関のガラス戸に倒れてしまった。
意識が戻った時、病院で屋根から落ちたのだと、祖母や母から言われたが、その時は全然わからなかった。
自分がなぜ病院にいるかが、不思議なくらいだった。
落ちた時の痛いという記憶はまったくない。
もしかしたら気絶してしまい、実際に痛くなかったのかも知れない。
鬼瓦につかまって下を見ていた事などを、少しずつそれらしく思い出したのは何年も何年も経ってからである。
そう言えば、屋根から落ちたことも、あったかと過去がよみがえった、ようであった。
何年も何年も経って、この事故の話を書きながら、そう言えば屋根で遊んでいて、落っこちた後、怒られるので、立ち上がって何でもなかったように、振舞おうと、努力したこと等は、ずっとずっと後になって思い出した感じすらある。
10年、20年も経て思い出すことあるだろうか?
もしかしたら昔の何かのことがゴジャゴジャになって、交雑し思い出しながら、そんな気になっているのかも知れない。