ノーベル平和賞を受賞しなかったガンディーの後ろで(2) | ジュネーブ半径500Mな毎日

ノーベル平和賞を受賞しなかったガンディーの後ろで(2)



引き続き、映画「ガンディー」の中で次のような場面がある

1、白人のキリスト教宣教師が初めてあった際に、ガンディーにこう言うのである
「もっと大きい人かと思っていました」
ふと口をついたこの言葉に、宣教師自身気まずい表情を見せるけれど、ガンディーは機転を効かせた対応をする。
本当に頭の良い人だ。



2、ガンディーは高等教育を受けた弁護士として最初南アフリカで働いていた。
立派なスーツに身を包んでいても、汽車では一等に乗る事が出来ず、例え切符を持っていても追い出され、街を歩く時には舗装されていないほこりっぽい車道を歩かなければならない。
舗装されている歩道を歩くと、白人のごろつきから囲まれて袋だたきに遭いそうになる。
しかし、暴力に屈せずに、権利を主張する強い人だ。


上記の描写は、言ってみれば「ありがちな人種差別」と思ってみていたのだけれど、

やはりイギリス下院での演説を読むと、それも「イギリス帝国の考えだった」という事が分かります。



興味深い事に、植民地に派遣されたイギリス人は、55歳になると必ずイギリスに帰る事になっていました。
55歳になるとイギリス人は、どうしても本国へ帰らなければならなかったのです。
植民地での生活が気に入って、例えば定年を迎えてもインドで過ごしたい人がいたとしても
イギリスに帰らなければならない規則があったのです。

なぜか

それは
「東洋人は、年老いて衰えた西洋人を決して目にしてはならなかったのであり、西洋人の方は、従属的種族(東洋人)の目に映る自分が、強健で理性的で、敏捷さを失わぬ若きラージャ(王侯貴族)であればよいのであって、それ以外の姿をとる必要はまったくなかったのである。」(オリエンタリズム (上)P104)


なので、映画「ガンディー」のなかで、白人宣教師が、インド人を導き、勇気を与え、イギリス帝国に異議を唱える有能な指導者的人間ガンディーが「小さかった」ということが「意外」であったという反応こそ、実はイギリス帝国自身が持っている価値観を表しているのではないかと思って興味深いです。



また、30年以上インドとエジプトを統治したクローマー卿は、東洋人(オリエンタル)を従属的種族と位置づけていたし、彼にとっては、土地により少しずつ条件は異なっていても、
「東洋人はどこにいてもほとんど同じ」従属的種族
だと考えられていた。

「東洋人の心は正確さを忌みきらう。これはインド在住英国人がゆめ忘れてはならぬ格言である」

との言葉を、ライアル卿から聞かされていたクローマー卿は、東洋人(オリエンタル)について次のように語っている

「ヨーロッパ人は綿密な理論を好む。事実を語る言葉には一点の曖昧さもない。かりに論理学など学ばずとも、ヨーロッパ人は生まれながらにして論理学者である。・・・・・・その訓練された知性は、機械の部品のごとくに作動する。これに反し、東洋人の精神は、東洋の街路の活況にも似て、著しく均斉を欠いている。東洋人の推論は、この上もなくずさんなものである。昔のアラブは、少しは高度な論証術の知識を習得していたが、その子孫ははなはだしく論理的能力を欠いている・・・・・・。」(オリエンタリズム  p.96)

このように、東洋人ないしアラブは愚鈍で「エネルギーと自発性に欠け」「嫌らしい追従」と陰謀と悪知恵と動物虐待にふけり、道路も歩道も歩く事が出来ない(賢いヨーロッパ人なら、道路も歩道も歩行のための物だとすぐに分かるのだが、東洋人の混乱した頭ではそれが理解不能なのだ)。(オリエンタリズム p.97)


上記のような報告から、東洋人(オリエンタル)は、歩道を歩く事が禁止になったのかもしれません。
歩道歩行禁止のような忌まわしい差別にも裏付け論理があることに驚きます。

このように、当時の政治家、バルフォアやクローマーは、時にはイギリス人を代表し、時にはヨーロッパ人を代表し、時には東洋人を代表し、巧みな弁証術で、いかにヨーロッパが優れていて、東洋(ヨーロッパの東側全て)が劣っているかを訴え、証明しようとしたのです。

当時1813年から1914年にかけて、ヨーロッパ以外の地表の85パーセントはすでにイギリスやフランスなどヨーロッパの植民地となっていたのすが、宗主国であるイギリスやフランスは、このオリエンタル達を、世界市民主義へと転換させようとしていたのです。

世界史民主義とは、東洋人(オリエンタル)が自分たちの土着の物(言語や文化)しか受け入れない狭いナショナリズムにとらわれず、ヨーロッパの優れた才能や非利己的主義に尊敬・好意・感謝の念を持ち、ヨーロッパに忠誠心を示す、という事らしいです。いってみれば、植民地はヨーロッパの畑であり工場であり、東洋人はかれらの道具って事なんでしょうか。ひとことでいえば、なんという傲慢。


言ってみれば、ガンディーの戦いとは、インドの独立だけでなく、ヨーロッパ列強が他国を世界市民主義に変えることへの抵抗となったのです。



ジュネーブ半径500Mな毎日
     (インド、初代大統領ネルー(左)とガンディー、ウィキペディアからお借りしています)



わずか100年前の話ですが、すごい議論が交わされていたと思います。

しかし、これほどまでに、オリエントが下劣だと結論づけたいイギリス帝国の論理には、しかし、どうやら東洋への恐れがあるような気がします。ヨーロッパにとって、一番近い東洋とはつまりイスラムです。オスマン帝国の強さは、キリスト教文化には本当に脅威だったので、産業革命が起こってヨーロッパが栄えた後には、一気にイスラムをおとなしくさせたいという思いもあるような気がしてなりません。

1312年に、パリ・オックスフォード、その他の大学に、オリエンタル研究のための学部が設立されています。これもやはり「イスラムには何かしら手を打たなければならない」という必要から設置された学部です。
ヨーロッパと異質のオリエントをどう理解してどう向き合うかというのはヨーロッパにとってはとても長い葛藤のようです。

そんな長い「相互不理解」な歴史を持つヨーロッパとオリエントですが、
例えばジュネーブもヨーロッパの中ではキリスト教とイスラム教が交差する縮図として考えられていて、国連にもそれを研究する人たちがいます。
これはまた書くと長くなるので、またいつか書きたいと思います。

話がどんどんずれて行くので、まあ、最初に戻ると、1914年には植民地時代の全盛を迎えたこの時代、イギリス帝国下院で上記のような議論が交わされた1910年から30~40年後にインドのガンディーが、もともと政治色の強いノーベル平和賞受賞というのは、なかなか難しい話だったんだなと思います。

(まあ、他にもガンディーの思想には多少偏ったところがあると思う人もいたかもしれませんが)



今から100年後には
「えーー、100年前ってこんな事が言われていたの?信じられなーい!」
ってことがたくさんあるんだろうなー。

政治の100年って変化が大きいですね。やはり利己的な物は変化も早いんでしょうか。



参考文献
オリエンタリズム  エドワード・W・サイード  今沢紀子訳
日本語版  1993年   平凡社

英語版は1978年 第1刷