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bleu-vert-et-bleuのブログ

好きなもの、マイブームなどを思いつくまま綴るブログ
今の一番のマイブームはキャンディキャンディ!

好きなことは
絵を描く、展覧会、漫画、アニメ、ギター、読書、旅行、映画、食べることなどなど

テリィ推しのブログ主は3,4巻ばかりを読んで幸せに浸っていたのですが(どうもテリィ推しあるあるらしい)、特に大好きで有名なメイフェスティバルのシーンラブ

その中のファーストキスのシーン。


ちょっと恥ずかしいのですが、当時食い入るようにこのコマを眺めていました。ニヤリ

ぼやかす意味で唇が書かれていない。

子供向けだからかあえてリアルに描いてないのですが、反ってそのことに妄想を掻き立てられていました。

 

一人になったときにガン見。ニヤニヤ

一体どんなキスなのだろうってww 唇を描いて練習していた。ニヤニヤ


キャンディの足が爪先立ちで震えているあたり、一瞬でないのも想像できて、どのくらいの時間?とか・・・滝汗(言っておいて恥ずかしい)

そしてそのあとのビンタ。

記憶では

パンッ!(キャンディ)、パンッ!(テリィ)、パンッ!(キャンディ)かと思っていたんですが、

バシッ!! (キャンディ)、ピシッ!(テリィ)、バシッ!(キャンディ)だった。

バシッ!! なのね、キャンディww


これはキャンディ激オコだったんですね。

 

音の大きさで怒りの度合いがわかる。

テリィの顔をみるとブチ切レていますし、腕も振り上げていますが、ピシッって音からはそこまで力強くなさそう。

キャンディのほうが怒りが激しかったんでしょう。(まあ仕方ない、テリィ)

そしてすっかり忘れていたアンソニーのビンタ。

これは小説にもありましたが、アンソニーが叩いたことが記憶になかったので、すごく驚くとともに新鮮でした。


彼の感情の起伏が感じられて。

バシーー!(一番音が大きい)さらに打った時の右手握りこんでるキョロキョロ

ぶった後の怒りの表情も、左手の震えも。あの温厚なアンソニーが・・・

心底キャンディを心配していたとよくわかる描写でした。でもやりすぎ・・・

(Finalではピシッに変更されていました。さすがに誇張しすぎたのか)

一方、ブログ主はパワハラ、セクハラが厳しい昨今の社会の流れに慣れてしまったようで、この昭和感に驚きと懐かしさみたいなものを同時に感じました。

そして、このあとのテリィの嫉妬が発端になって起きた乗馬シーン。

馬小屋につれていかれたときはちょっと、もしかして・・・といけない方向で想像しましたがニヤリ


この若さに任せた彼の激しい感情と行動がキャンディのトラウマを克服する。


5月の風を感じながら二人が馬で疾走し、生きていることを実感し、心を近づけたシーン。

一歩間違える暴力的にもとらえられなくもないですが、このテリィの行動すごくいいです。(昭和世代の感想?)

そしてそのあとの沈黙

なんだか・・・二人でずっとむかしからこうしていたみたい・・・

魂のふれあいに言葉はいらないことを実感する。

年を取ったからでしょうか。この瑞々しさに強く引き付けられたのでした。いいな・・・照れ

何度読んでも辛く苦しいキャンディとテリィの別れの原因となっている人物、スザナ。

スザナのことは正直心が重くあまり触れたくない。だからこの回だけ。


前回偶然にも宇宙戦艦ヤマトのことを書いたので、それに併せて少しだけ触れたい。

さらば宇宙戦艦ヤマトで森雪が古代進をかばって撃たれ、それが致命傷になってその後亡くなるのですが、そのシーンとスザナがテリィをかばって重傷を負うシーンとが重なる。相手を押し倒してかばうのです。

そして、どちらも1978年の出来事。

さらば宇宙戦艦ヤマト上映とキャンディとテリィの別れがあった単行本7巻の発売の年。

キャンディキャンディが4月でヤマトが8月。

そして庇われるほうの男性の声優がどちらも富山敬さん。

森雪はすでに古代進とは婚約状態であり、無事帰還したら結婚式を予定していたにも関わらず亡くなってしまった。


一方、スザナはテリィとキャンディが次に再会したら、同棲してそのうち婚約に進んでもおかしくない関係にあったところに、割り込んだ形であり、テリィの愛の対象ではありませんでした。

森雪もスザナもどちらも愛する人を守るために身を呈して犠牲になったという意味では同じ。


愛するもの同士の関係から起きた愛するものを守る行為。


片思いの関係から起きた愛するものを守る行為。

行動としては同じ。

スザナには愛があった。ただテリィには愛がなかった。


愛し合っていれば何も問題はなかった。テリィに愛があれば。

愛、愛って書いてると愛とは何かわかっているのか?と自分に突っ込みを入れたくなる。

一般的に言われる愛というものが与えることだと仮定するならば、スザナが身を呈してかばったことは愛ですが、彼を手放すことができなかったことは愛ではないということになる。


ただ、そもそも衰弱したスザナとキャンディが同条件にないあの状況で別れを決断するには無理がある。


愛してくれる人の愛に報いる選択をしたのがテリィの愛であるなら、彼が愛し続けることができれば問題なかったということになる。

それでも10代の彼一人にその重い代償を負わせてしまうこと自体に無理があり、歪が生じてしまうわけで、この問題の正論を語ることは誰にもできないと思う。

まあ、スザナがこの事件の前座で嫉妬からくる数々の行為をせず、心優しき女性であれば、ブログ主ももう少し別れをすんなり受け入れられたかもしれないとは思う。

なーんて、真面目に考えてみた。ニコニコ 

 

スザナの問題は重く、茶化しておかないとどんどん苦しくなってしまいます。

結局のところ、スザナは不運な女性だと思います。

 

それでも最期まで自ら愛するひとと生きることができたのであれば、彼女は自分の愛を貫くことができたのだからそれも一つの愛の形なのかと。

 

まあそう言えるようになったのは、FinalStoryの話があってこそだと思っている。

森雪が古代進を庇わなかったら、人類滅亡だったかもしれないというスケールが全く違う問題ニヤニヤと比較するのもおかしな話ですが愛が根底にある作品ということで同じ。

1978年は10歳にもなっていなくて恋愛の何たるか、人類滅亡など考えたこともないブログ主には到底解決不能な作品を体験した年であったようです。真顔 これが昭和???

どちらも50年経った今も大好きで、そして色々な意味でその後の人生に影響を与えた作品であることは間違いないです。
 

このところキャンディキャンディに、いやテリィにのぼせているブログ主ですが、先日YouTubeでアニメテリィの声をされていた富山敬さんが「キャンディ!」って叫んでいるシーンを見て以来、その声が頭について離れないでいます。

富山敬さんと言えばブログ主にとっては宇宙戦艦ヤマトの古代進を一番に思い出します。


やはりイケメンの声は富山さんってのがあったんでしょう。大好きです、彼の声。

ブログ主、映画を初めて映画館でみたのが、さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち


アニメシリーズのあとに公開されたこの映画、爆発的アニメブームを生み出し社会現象となった作品。

 

そしてシリーズ全部みましたが結局これが一番だと思っています。(ヤマトについてはまた別の機会に)

 

当時まだ小さかったですし、当然ながらヤマトについては知らず、年長の兄姉がみたいと言い出したことからたまたまみた作品でした。

あまりの人気でチケットが入手できず、父が3時間前から並んでくれ、それでも立ち見でした。

 

チビのブログ主には3時間近くの立ち見は無理だろうとおいて行かれそうになったのを駄々こねて連れて行ってもらって。


映画で立ち見をしたのは50年以上の人生でこの作品だけ。

 

立ち見みでも1列ではなく何列かあって、顔を肩の合間からのぞかせてみていた人もいました。

映画はそれはそれは素晴らしく立っていることもすっかり忘れ、この映画がきっかけでヤマトが好きになり、その後アニメオタクになっていきました。

一緒にみた家族はその後ヤマトの話をすることは一切なく、ブログ主だけがその熱を冷ますことなくはまり続けたのでした。(なぜ~)

当時周りには女子ヤマトファンがひとりだけいておねがい、その子がその後すべてを一緒に映画に行ってくれて本当に有難かった。

 

あんなに社会現象になっていたにも関わらずなぜか周りの女子でハマる子がいなかった・・・

 

おそらくナウシカあたりから女子のアニメファンが増えた気がします。


その後数年は第一アニメブーム(ブログ主にとって)が続き、アニメージュ、ジ・アニメなどの雑誌も購入していました。

 

これが当時確か600円位していて、情報もカラーぺージも多いのですが、小学生には高い。

 

その時々で特集のいいほうを一冊だけ買っていました。


それからしばらくしてアニメディアが発売され、それが380円という価格だったのでそっちに移ってしまって(でも当然カラーページは少なかった)

切り取ってクリアケースに入れて下敷きとして使ったり、今じゃちょっと考えらえないけれど、それを学校で使用していても咎められることがなかった時代でした。

当時は子供でしたし、今のように情報がなく、少しでも瞬間をとらえたシーンが欲しかった。

 

カメラが趣味だった父に協力してもらい、テレビにスタンドカメラをセットしてアニメ放送を写真に撮ったりなんかもしていました。


勿論ブラウン管のテレビだから綺麗に取れるはずもなく。

 

でも、そんな娘のわがままに付き合ってくれた今は亡き父にとても感謝している。父はいつも寛大だった。

 

ほとんどの放送が19-20時の夕食後だったから自然と家族の時間として楽しんでいました。


はまりすぎて妄想しすぎて、自分も将来は森雪になって第一艦橋に行かなくてはと思ってみたり、学校の図書館で宇宙の本を借りて読んだり(すぐ飽きる爆  笑

麻上洋子さんがパーソナリティをされていたアニメトピアというラジオ番組を、土曜の夜に布団に入ってラジカセで聞きながら寝る。


イントロが素敵な「街角のカフェ」って主題歌が流れてくると、なんだか急に大人になった気がして、土曜の夜がとても魅力的に感じていました。YouTubeにありました!

 

耳の後ろがかゆいと、すてきな事件が起こるものよ

耳たぶが今うずいてる 恋が近づいている証拠なのよ

 

素人っぽい感じが当時の雰囲気を醸し出してる爆  笑

 



 

今年アニメ放送50周年記念のヤマト、ちょっとワクワクしてきた爆  笑

テリィについて話そうとすると、なぜかとてもどきどきしてきます。

何十年振りかの漫画のテリィは子供の時に射抜かれたブログ主の心を再度射抜ぬいていったとでもいうのか。


彼に惚れなおし、自分は結局子供の時から何も変わってないんだと認識した瞬間でもありました。

テリィは別格でした。


今回読んだときにアンソニーには若かりし日の思い出の中の少年ように感じたのに対し、テリィは同じ10代だったにも関わらず、年齢や時代を感じさせずいまもそこにいるような存在に思えたのでした。

キャンディキャンディの世界は20世紀初頭のアメリカ/イギリスが舞台。

 

彼の髪色から感じるものなのかはっきりわからないのですが、2次元だから実在しないのにいるかもしれないという期待感を抱かせる。

 

現実と空想の間の何とも微妙な立ち位置に存在していて、そのことでさらに妄想が膨んでいまうのかもしれません。


彼の魅力はなんといっても行動と心の静と動の部分、心の中に潜む孤独感、器用なのに不器用で、色気...あげればきりがなかった爆  笑


名前からして一際目立つ存在感。過去の漫画作品で最大級に魅力的な名前。

さすがブロードウェイで主役を取るだけある。世界中に今も彼のファンがいるのも納得です。

ここまで女性を魅了する要素を盛り込んだ男性を作り上げることができる名木田先生。

 

そしてそれを漫画に落しこんだいがらし先生はすごいなあと思わざるえません。

女性は大人になると社会性が備わって経験値が増すので、アンソニーやアルバートさんのような穏やかな愛を注いでくれる男性が結婚するには理想的となる。

なのにそれを超越して彼の魅力の前にそんなこと、どうでもいい!好きなものは好きなんだと言わせてしまうのがテリィ。


先日ある人から「きっと好みは変わらないから90歳になっても同じだと思う」と言われ、そうか、ブログ主、よぼよぼになってもテリィが好きなんだろうなあと認識せざるえなかったのでした。


きっと遺伝子レベルで女性を引き付ける魅力がテリィにはあるのでしょう。

買いなおしてから何度か読みましたが過酷な試練をテリィに与えすぎているようで本当に気の毒...


10代でスザナとの人生を選択せざる得ない彼の運命は、一生の不幸を背負いこみ、それが心の死を意味していて読んでる読者も苦しいし・・・

テリィが想像以上に人気のある人物に仕上がってしまったことは制作側として予想外だったと読んだことがある。

 

それにしてはロンドン編で、二人が関係を深めていく過程は本当に素晴らしく、あそこまで丁寧に時間をかけて描かれてきたのだから、あの結末をファンがただの成長物語では済ませられないのは当然かも。

 

連載終了当時は続編があるのではないかとずっと期待しながらも時が過ぎ、自分の青春時代の辛い恋を忘れるかのように古い傷を見ないようにテリィは心の奥になりを潜めていました。それがここにきて再燃ニヤニヤ まだ燃えてる爆  笑

それでもFinalStoryでテリィはスザナを人として最後まで見放さず責任を取ったことで、名木田先生も時間の経過とともに、彼に彼自身の人生を生きる機会を与えようとしてくださったのかな。

キャンディもアードレー家の養女という立場もあって、アンソニーとテリィをしのぐ人物との出会いがその後あったとは想像できず、自分の生きる道として看護婦という職業を選択したことからも、恋愛依存的な生き方はしなかったでしょう。

第二次世界大戦が迫るイギリスで、一瞬先に何が起こるかわからない時代に生きるキャンディとテリィに、名木田先生は希望を与えてくださったと思いたい。

赤毛のアン、マニラとの会話で大学に行くことをやめたアンのことば
「曲がり角を曲がったさきになにがあるのかあたしにはわからないけど、きっと一番いいことが待っていると信じることにした。」

実際アンにもいいことが待っていた。ポニー先生の言葉と重なります。
いちばんいいことがあったんです。テリィにもキャンディにも。

 

二人には幸せでいてほしいと切に願うのです。恋心?老婆心?なんでもいいか爆  笑
 

 

西村ケント(くん)というソロギタリストをご存じでしょうか。

初めてYouTubeで彼の演奏を聴いたときは驚きを隠せずガン見。

 

目が釘付けになってしまい動けなかった。


ギター一本での演奏? 他の楽器とのセッションではない?何度も再生。

日本のソロギター界に彗星のように現れた若手ホープ。


子供の頃から巷では若手ホープとして知られた若干20?21歳?のアーチスト。


派手さがなくまるで職人のように音を刻む。日本より海外の著名人から惜しみない賞賛をうけています。

本当にすばらしいとしかいいいようがないです。兎に角リズム感が半端ない。


ライブでの生演奏はとても贅沢で、いつもあっという間に終わってしまう。

こういう頑張ってる才能ある若者はこれからも応援していきたいなあ。

 

参考までに一曲 





話は変わってブログ主も下手なりにギターを続けている。

コロナ禍で突如 QueenのLove of my lifeを弾きたいという衝動にかられ、完全に見切り発車でギターを購入したのでしたニヤリ


家にばかりいて滅入る!アクティブなことをやりたい!みんなそう思ったはず。

 

当時ギター始めた人が続出したとか。

でも始めてみるとわかる。若い頃のようにはいかない。


指は動かない。指痛い。楽譜も拡大しないとよく見えない ニヤニヤ リズム違ってる?


おまけに座ってばかりで腰痛悪化。アクティブのはずが整形外科行き 滝汗 リハビリですか?

それでも目標を大きくし過ぎず、期待しすぎず、まあこんなもんよととにかくちょこちょこっと弾いて地道にやってすこしづつ弾けるようになってきた。

 

もちろん彼のような演奏は目指していない。弾きたい曲をその時の気分で弾く。

 

とは言っても結局ちゃんと練習しないと弾けないのが楽器。

いまはキャンディキャンディにはまっているので 「あしたがすき」も練習している。

C~A7~Dm~♪


堀江美都子さんが歌うこの曲、昔から大好きで特別な曲。聴くたびに胸が熱くなる。


彼女は1/F揺らぎの声の持ち主ではないでしょうか。

名木田先生の歌詞よし、ボーカルよし、バックのいがらし先生の絵もよしで,家族と一緒にみていた子供の頃の何気ない想い出。

 

過ぎし日のあの頃と重なってウルっとしますおねがい

 

(以下はファイナルストーリーのネタバレ含む)

 

まずはアンソニーとの想い出から

なかよしを毎月買い始めたとき、ちょうどキャンディキャンディは単行本3巻の途中、ロンドンでの学生生活が始まるあたりだったと記憶している。

なかよしを毎月購入している子はクラスに少なかったのか、そのことを話す友達がいなかったのか。


ただ、一人だけ最初から読んでいる子がいました。あまり話したことがない子でした。


ある日、偶然キャンディが好きだと話が合ったことから一緒に帰宅することになり、その子からキャンディが好きだった少年が落馬により亡くなったのだというネタバレをされたのです。

その時のショックといったらなかったガーン ランドセルを背負いながら立ち止まって愕然としたのでした。


その後約束を取り付けてその子の家に遊びに行き、単行本の2巻をとりあえず読ませてもらい、のちに1.2巻を購入しました。

当時のブログ主にはアンソニーはずっと年上の美しく、かっこいい、どこまでも優しい少年でした。


こんなやさしさを表現できる少年がいるのだという驚きと憧れを抱くと同時に彼の愛情をうけるキャンディがうらやましくて仕方なかった。

スウィートキャンディと名付けたバラを贈るシーン。


あれはそれまで生きてきた中で(10年も生きていないw)一番の甘い愛情表現で、大人になるとこんな体験ができるのか、いつか自分もこんな男性に出会えるのかと期待していました爆  笑

家に花が飾られているとそのうちの1本を取って、それがバラであろうがなかろうが
「スウィートキャンディを君に送ろう」「ありがとう、アンソニー」という一人芝居を密かにやっていました(妄想強め爆  笑

スウィートキャンディ?いやブログ主はキャンディでないからスィート〇〇(ブログ主)か。

 

日本語だから全くスウィートではなく急に興ざめする。

そして今でもばらを見るとふとスウィートキャンディの話を思い出すのです。


ばら=アンソニーのイメージがここまで自分しみついていることを考えると、状況違えど同世代で同じような方は多いかと。

さて、そんな男性のやさしさというものを初めて教えてくれたのがアンソニー。


改めて漫画を読むと、彼は想像していたよりもずっと幼い容姿をしていました。


最後に読んだのが20代前半で、当時は彼より年上になってしまったものの、まだ彼にずっと近い年齢でしたので気にならなかったのでしょう。

アンソニーは遥か昔の遠い日の思い出の中に存在したような、儚げな天使を思わせる美しい少年でした。


すっかり年を取ってしまったブログ主には彼はまぶしすぎる少年でした。

物語の初めから早逝が運命づけられていた彼が、散りゆくバラを背景にキャンディにお母さまについて語るシーン。


とても意味のある印象深いシーンなのですが、当時この彼の悟りの先にあるものをまだよく理解できてなかったように思います。

その後イギリスへと舞台を変えるので、彼を失った悲しみはあっても次の展開への期待感のほうが強かった。


そしてテリィの登場、メイフェスティバルの乗馬事件と続いていくので、自然とアンソニーの存在は薄れていきました。

アンソニーがキャンディの心の中で生き続けていることは理解していましたが、漫画の回想シーンからは、彼女のアンソニーへの深い愛情がどの程度なのかを読み取ることは難しく、そこがアンソニーファンからすると彼が早くに物語から降りることに対する残念感にもつながっているのかもしれません。

ただ、Final Storyでキャンディのアンソニーへの愛情は、想像していたよりもはるかに深く、強い絆となって彼女の心の中で生き続けていました。そりゃテリィが嫉妬するのも頷ける。

キャンディを守るための存在としてテリィがすぐにキャンディの前に現れたのも納得できます。

 

アンソニーがテリィと出会わせてくれたと思うのも自然な流れ。テリィの出現がなければ乗り越えられなかった悲しみですから。


キャンディとテリィは二人が生きていても会えないという辛い試練を乗り越えることになるのですが、一方でこの試練は神から二人に与えられた試練であり、同時にアンソニーがテリィを試した(与えた)試練と勝手ながら考えています。

現世でキャンディのそばで彼女を守ること、愛し続けることができるのはテリィなのかどうか。

 

さらに飛躍して、だからこそその先にスザナの死があるのではないかと。

 

そう考えるとスザナの死に意味があるように感じられるのです。

アンソニーの幸せはキャンディの幸せであり、キャンディの幸せは愛するひとと生きていくこと。


彼は自分が現世で果たせなかった想いをテリィに託した(認めた)みたいな感じで捉えています。

キャンディ、君は幸せかい?もちろんよ、愛するひとと暮らしているんですもの・・・
 

八咫烏シリーズの文庫版、烏の緑羽が発売された。


待ってましたーニコニコ すでに読んでしまいましたが。でも買いました、また読みます。

ブログ主はこのシリーズ文庫版で買っているので、最新版の望月の烏はまだ読んでない。


読みたくて読みたくて何度買おうか迷ったのだが、文庫本の発売まで待ちネタバレを見ないように注意している。

 

9月までNHKで夜11:45からアニメ放送されていました。再放送がゴールデンタイムで放送予定だとのこと。

 

続きのシリーズもありそうなので今から楽しみです。

 

この作品はアニメが始まるとほぼ同時で小説を読み始めた。作者の阿部智里先生の文章がとにかくすばらしいです。

 

読み始めるとやめられなくなるものだから、必ず週末に一気に読むようにしている。
 

アニメのほうはお決まりの長髪イケメン男性がおり(若宮)入野自由さんが声を担当しておられます。

こういうキャラクターがいるとテンション上がりますおねがい 

 

50代になってもアニメのキャラクターがいいと言ってるのはいかがなものかと思うのですが好きだからやめられない。

 

まあ子供もそんな母親を冷めてみているとは思うニヤリ

 

 

 

 

 

 

 




 

 




 

立ち止まらない少女たち 〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ という本がある。
(著者 大串尚代氏) 松柏社

図書館で見つけて面白そうだったので購入した。

 

アメリカ女性文学などを専門とする慶応大学文学部教授の著書。

キャンディキャンディをはじめアメリカ女性主人公の物語が日本の少女マンガの想像性に
与えた影響やその時代/文化背景などから真面目に論じている本。

明治~現在までの少女文化を詳細に解説している。


特に、20世紀の日本の少女漫画は19世紀の英米の恋愛中心の女性小説の想像の先にあると。

海外(翻訳)小説を読んだ日本の漫画家たちが海外を舞台とした作品を作り出し、それが少女漫画というジャンルを構成して広がっていったという考察している論文式の本というかでしょうか。

キャンディの話は序盤だけで、さすが論文ですから細かくw 

 

少女漫画好きも最後のほうはちょっと息切れしますがなかなか興味深かった。

何より50代の著者はキャンディキャンディからすべてが始まったと言っていて、自分と同世代の少女たちに与えたキャンデイの影響力の大きさをひしひしと感じたのでした。

団塊の世代の漫画家様たちの作品は外国文学に影響を受けた方々も多く、キャンディをはじめとした外国を背景にした作品を子供時代に読み、知らず知らずにうちにどっぷり欧米文化にはまっておりました。

そういった作品を少女時代に堪能できたのはとても恵まれていて幸せだったんだと今になってつくづく感じます。

 

それにしてもキャンディキャンデイの影響力すごいなあ・・・

 

漫画を改めて読む中でアーチーのことがとても気になりました。

キャンディキャンディに登場する男性はみな優しい。

 

子供のころ、誰派なる質問が女子の間では必ずあった。


アンソニーかテリィかアルバートか、ステアもいいよね、というもの。

その中でなぜかアーチーが好きと言った人は少なかったのです。(ブログ主の周りの女子だけかもですが)実際ブログ主も彼はいい人なのになぜか苦手でした。


おしゃれでハンサムなのに、その洗練された感じがどこか神経質な感じがしました。


弟だったせいか、彼の気質からくるものなのか、ステアに比べると何となく大人気なく感じたというのもあります。


キャンディよりアニーのほうが絶対お似合いだし、アニーがいるじゃない、なのになんでキャンディに告白するんだ、と。

アーチーは(ステアも)キャンデイとの出会いが良過ぎたと回想しているのですが、アーチーのような人が、キャンディのような活発な女性を好きというのが意外すぎるという勝手な決めつけもありました。


ただ、キャンディがアードレー家の養女になったお披露目会で彼女がドレスアップした姿を見て
(この時のキャンディとにかく素敵)、実は3人の中でアーチーが一番彼女の美しさに反応していているように見えました。


キャンディはそばかすで鼻ぺちゃだとかいわれているけど、多彩な面を持つ本当に魅力ある女性なんだとつくづく思ったわけです。

ステアもパティがいても、キャンディのことは特別な存在として大切に想っていたという意味ではアーチーと同じなのですが、

 

アーチーはもっと情熱的にキャンディのことを想っているようでしたし、どこかテリィと似たところもある。

アーチーは物語の後半までキャンデイを好きだという気持ちを明確に抱いており、あんなにイケメンで優しい彼が、実は誰よりもキャンディに長いこと片思いをして報われてないわけで、その気持ちを考えると何とも切ないなと。

彼の魅力は子供のブログ主にはわからないものだったのかもしれません。


 

キャンディキャンディが絶版状態であることからふと思い出した映画


レオナルド・ディカプリオ主演「太陽と月に背いて」

フランスの天才詩人アルチュール・ランボーと師匠ヴェルレーヌとの禁断の恋を描いたものです。

何年か毎に思い出しては状況は変わったか調べるもやはり絶版状態。


絶版になった理由として紀伊国屋がDVDの販売権を失ったしまったとか。

 

なんでディカプリオ主演なのに絶版・・・

今は中古購入でしか見ることができないようですし、購入すると結構なお値段です。


もう見ることはできなのかな。ほんと残念。何かの機会に見られることを願うのみ。
 

ランボーといえば普通の人はあのランボーしか思い浮かばないから、話がシルベスター・スタローンに飛んでしまうニヤニヤ

 

Rimbaud です。Rambo ではありません。 ニコニコ