すごいって思われたいですか?
 

 

気づかないうちに、

 

誰かの視線を気にしてしまうことがある。


「すごいと思われたい」

 

「認められたい」

 

 

そんな気持ちがふっと胸に

 

湧く瞬間は、誰にでもあると思う。

 

私も無意識に、いつも何者かになろうとしていた。

 

でもさ、

 

人は、無理に何者かにならなくていい。

 

 

肩書きも、評価も、特別さもいらない。


むしろ、それらを手放して

 

しまったときのほうが、呼吸が深くなる。

 

 

たとえば─


誰が置いたのかわからない、小さなお菓子。

 

名前もない、主張もない。


でも、それを見つけた誰かが少し笑顔になる。


そんな“匿名の優しさ”って、真の思いやりだと思う。

 

誰でもない誰かでいることは、

 

とても豊かなことだと思う。

 

 

例えば、水は必要とされている存在だ。


でも、水自身はこう思わない。

 

「俺のおかげで生きてるんだぞ」


そんな誇り方はしない。

 

ただそこにあって、

 

流れて、満たして、命を支えている。

 

 

意思すら持たないのに、

 

たくさんのものを助けている。

 

 

存在がそのまま優しさになるって、こういうことだ。

 

そして、木もまた同じように、

 

自分が役に立っているか

 

どうかなんて気にしていない。

 


鳥にとっては休む場所で、

 

虫にとっては家で、

 

人にとっては日陰や癒しで。

 

 

ただ、そこに立っているだけだ。


 

価値に“上下”をつけるのは、いつも人のほうだ。

 

これは良い、これはダメ、

 

これは価値がある、あれは価値がない。

 


その判断を続ける限り、

 

上下は永遠に消えない。

 

 

でも実際には──


最初から上下なんて存在していない。

 

 

みんな同じ地平で、

 

ただ助け合って生きているだけだ。

 

 

もっとゆるくていい。


すごいと思われる必要はない。

 

自然体で、心から楽しんでいれば、


その軽やかさが誰かの灯りになっているものだ。

 

木も水も名乗らない。


それでも、必要とされている。

 

だから私たちも、きっとそれでいい。

 

 

何者にもならなくていいんだ。