幕末から明治維新への流れを再考察 19 (「桜田門外の変」の補足) | Subaruのブログ

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皆さま。

 

お久しぶりぶりです。

 

最近、ブログ更新にブレーキがかかってる感じで、

幕末の話が、なかなか進んでおりません。

 

幕末の話が終わる前に、人生が終わってたとか、

尻切れトンボになったりしないよう、

地道に更新を続けたいものです。

 

かなり間が空きましたので、

前回のBlog の大まかな内容を書いておきます。

 

日米修好通商条約を、当時のナンバー2の立場あった井伊直弼が、

朝廷の勅許を得ぬまま調印してしまった。

水戸藩主・徳川斉昭を初めとする尊王攘夷派の人々がこれに憤り、

幕府に猛然と抗議をしたんだけれども、

この攘夷派の人々を、井伊直弼は、死罪を含め、厳しく罰した。

これが「安政の大獄」。

これに業を煮やした水戸藩士達の何人かが、

脱藩してテロリストとなり、井伊直弼を暗殺した。

これが世に言う「桜田門外の変」

 

という流れでした。

 

で、今回のBlog では、この井伊直弼の暗殺が行われた、

「桜田門外の変」が起きた時の状況を、

もう少し詳しく書いておきたいと思います。

 

安政七年三月三日(1860年3月24日)、午前8時、

諸侯が行列をなし桜田門をくぐり、

尾張藩の行列が見物客らの目の前を過ぎた午前9時頃、

彦根藩邸上屋敷の門が開き、直弼の行列は門を出る。

 

彦根藩邸から桜田門まで3~400メートル程度で、

彦根藩の行列は60人位。その日は雪で視界は悪く、

彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、

刀の柄、鞘ともに袋をかけていたので、

とっさの迎撃に対応し難く、襲撃側に有利な状況になっていた。

 

直弼の命を狙う者達がいるので、

護衛を増やそうという助言もあったが、

護衛の強化は失政を非難する者達に対して動揺した、

との批判を招くと直弼は判断し、普段通りの人数で行列を行う。

 

登城する直弼の駕籠は、彦根藩上屋敷の門を出発し、

江戸城外の桜田門外[差し掛かった所で、

脱藩した元水戸藩の浪士たちの襲撃を受ける。 

 

まず、切込み役が彦根藩士達に切りかかり、

援護役が先頭に加わって戦闘を錯乱する。

この先頭によって、井伊が乗っていた駕籠はがら空きになる。

そこに森五六郎が直訴状を持って駆け付け、

その直訴状の下に隠していたピストルで、

井伊の乗っていた駕籠を射撃。

 

直弼は居合の達人だったが、

銃弾が直弼の腰部から太腿を貫いた為、

この時点で運動神経が麻痺し、戦闘不能となる。

 

襲撃に驚いた丸腰の駕籠かき、徒歩人足、

また彦根藩士の多くは算を乱して遁走。

 

護衛の任にある彦根藩士たちは、

雪の水分が柄を湿らせるのを避ける為、

両刀に柄袋をかけていたので、

これと鞘袋が邪魔してとっさに抜刀できない。

このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んだりして、

指や耳を切り落とされてしまう。 

 

こうした防御者側に不利な形勢の中、彦根藩士も抵抗を行い、

襲撃者側も被害が拡大。

二刀流の使い手で彦根藩一の剣豪の河西忠左衛門は、

冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、

駕籠脇を守って浪士・稲田重蔵を倒し、さらなる襲撃を防ぐ。

 

同じく駕籠脇の若い剣豪・永田太郎兵衛正備も二刀流で大奮戦し、

襲撃者に重傷を負わせる。しかし、河西が斬られて倒れ、

永田も銃弾を受けて戦闘不能になってしまい、 やがて、

護る者のいなくなった駕籠に、

次々に襲撃者の刀が突き立てられる。

 

最期に、薩摩藩士・有村次左衛門が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、

虫の息となっていた直弼の髷を掴み駕籠から引きずり出し、

瀕死の直弼を、薩摩刀によって斬首、暗殺完了。

 

襲撃開始から直弼殺戮まで、僅か十数分。

 

この「桜田門外の変」と呼ばれる、井伊直弼暗殺事件は、

これまでの武家社会では、明らかに異質の事件でした。

 

まず、かつての武家社会においては、

「ヤーヤー我こそは・・・」と、殺し合いの前でも、

丁寧に自己紹介をしてから戦闘をはじめていました。

 

ところが、この「桜田門外の変」は、

雪で視界が悪い上に抜刀しにくい状況下での不意打ち。

更に直訴状の下に、

武家社会では卑怯と考えられていた、

飛び道具であるピストルを隠し持ち、

居合の達人である井伊直弼との直接対決を避け、

駕籠の中に居て、外が良く見えない直弼を、

直訴状の下に隠し持っていたピストルで射撃。

 

更に、被弾して動けなくなった直弼が乗っていた駕籠に、

テロリストたちが次々と刀で貫く。

 

そして、

虫の息となった瀕死の井伊を駕籠の中から引きずり出し、斬首。

 

武士の情け、無し。

そしてここでも、薩摩藩士。

 

このように、きれいごとは一切抜きで、

目的達成の為なら手段を選ばないという戦いは、

日本で伝統的に行われていた戦(いくさ)ではない。

むしろ、戦争での戦い方に近い。

 

その後幕府を倒して政権を奪い取った薩摩藩士達は、

伝統的な日本人とは一線を画していた人々だった、

と見ることも出来ます。