皆さま。
お久しぶりぶりです。
最近、ブログ更新にブレーキがかかってる感じで、
幕末の話が、なかなか進んでおりません。
幕末の話が終わる前に、人生が終わってたとか、
尻切れトンボになったりしないよう、
地道に更新を続けたいものです。
かなり間が空きましたので、
前回のBlog の大まかな内容を書いておきます。
日米修好通商条約を、当時のナンバー2の立場あった井伊直弼が、
朝廷の勅許を得ぬまま調印してしまった。
水戸藩主・徳川斉昭を初めとする尊王攘夷派の人々がこれに憤り、
幕府に猛然と抗議をしたんだけれども、
この攘夷派の人々を、井伊直弼は、死罪を含め、厳しく罰した。
これが「安政の大獄」。
これに業を煮やした水戸藩士達の何人かが、
脱藩してテロリストとなり、井伊直弼を暗殺した。
これが世に言う「桜田門外の変」
という流れでした。
で、今回のBlog では、この井伊直弼の暗殺が行われた、
「桜田門外の変」が起きた時の状況を、
もう少し詳しく書いておきたいと思います。
安政七年三月三日(1860年3月24日)、午前8時、
諸侯が行列をなし桜田門をくぐり、
尾張藩の行列が見物客らの目の前を過ぎた午前9時頃、
彦根藩邸上屋敷の門が開き、直弼の行列は門を出る。
彦根藩邸から桜田門まで3~400メートル程度で、
彦根藩の行列は60人位。その日は雪で視界は悪く、
彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、
刀の柄、鞘ともに袋をかけていたので、
とっさの迎撃に対応し難く、襲撃側に有利な状況になっていた。
直弼の命を狙う者達がいるので、
護衛を増やそうという助言もあったが、
護衛の強化は失政を非難する者達に対して動揺した、
との批判を招くと直弼は判断し、普段通りの人数で行列を行う。
登城する直弼の駕籠は、彦根藩上屋敷の門を出発し、
江戸城外の桜田門外[差し掛かった所で、
脱藩した元水戸藩の浪士たちの襲撃を受ける。
まず、切込み役が彦根藩士達に切りかかり、
援護役が先頭に加わって戦闘を錯乱する。
この先頭によって、井伊が乗っていた駕籠はがら空きになる。
そこに森五六郎が直訴状を持って駆け付け、
その直訴状の下に隠していたピストルで、
井伊の乗っていた駕籠を射撃。
直弼は居合の達人だったが、
銃弾が直弼の腰部から太腿を貫いた為、
この時点で運動神経が麻痺し、戦闘不能となる。
襲撃に驚いた丸腰の駕籠かき、徒歩人足、
また彦根藩士の多くは算を乱して遁走。
護衛の任にある彦根藩士たちは、
雪の水分が柄を湿らせるのを避ける為、
両刀に柄袋をかけていたので、
これと鞘袋が邪魔してとっさに抜刀できない。
このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んだりして、
指や耳を切り落とされてしまう。
こうした防御者側に不利な形勢の中、彦根藩士も抵抗を行い、
襲撃者側も被害が拡大。
二刀流の使い手で彦根藩一の剣豪の河西忠左衛門は、
冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、
駕籠脇を守って浪士・稲田重蔵を倒し、さらなる襲撃を防ぐ。
同じく駕籠脇の若い剣豪・永田太郎兵衛正備も二刀流で大奮戦し、
襲撃者に重傷を負わせる。しかし、河西が斬られて倒れ、
永田も銃弾を受けて戦闘不能になってしまい、 やがて、
護る者のいなくなった駕籠に、
次々に襲撃者の刀が突き立てられる。
最期に、薩摩藩士・有村次左衛門が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、
虫の息となっていた直弼の髷を掴み駕籠から引きずり出し、
瀕死の直弼を、薩摩刀によって斬首、暗殺完了。
襲撃開始から直弼殺戮まで、僅か十数分。
この「桜田門外の変」と呼ばれる、井伊直弼暗殺事件は、
これまでの武家社会では、明らかに異質の事件でした。
まず、かつての武家社会においては、
「ヤーヤー我こそは・・・」と、殺し合いの前でも、
丁寧に自己紹介をしてから戦闘をはじめていました。
ところが、この「桜田門外の変」は、
雪で視界が悪い上に抜刀しにくい状況下での不意打ち。
更に直訴状の下に、
武家社会では卑怯と考えられていた、
飛び道具であるピストルを隠し持ち、
居合の達人である井伊直弼との直接対決を避け、
駕籠の中に居て、外が良く見えない直弼を、
直訴状の下に隠し持っていたピストルで射撃。
更に、被弾して動けなくなった直弼が乗っていた駕籠に、
テロリストたちが次々と刀で貫く。
そして、
虫の息となった瀕死の井伊を駕籠の中から引きずり出し、斬首。
武士の情け、無し。
そしてここでも、薩摩藩士。
このように、きれいごとは一切抜きで、
目的達成の為なら手段を選ばないという戦いは、
日本で伝統的に行われていた戦(いくさ)ではない。
むしろ、戦争での戦い方に近い。
その後幕府を倒して政権を奪い取った薩摩藩士達は、
伝統的な日本人とは一線を画していた人々だった、
と見ることも出来ます。