前回のBlog で、
日米修好通商条約締結を担当した幕臣、
岩瀬忠震について書きました。
今回の blog では、この岩瀬が、
America 側全権大使 Townsent Harris と、
条約成立へ向けて使った交渉術を学んでいきましょう。
まず岩瀬は、ハリスが、
「日本により多くの港を開いて活発に貿易を行いたい。」
と要求したのに対して、
「日本は国土が狭いから、3港以上は開かぬ。」
と、いきなり突き放します。
国土が狭いとは、America と比較して言っています。
さらに、America からやって来る船は、
日本の港にとってはでかすぎるから入らないと、
極めて理路整然と相手の要求を拒否します。
日本が小さな国で港も小さいのは知ってるだろう。
それなのに勝手にでかい船てやってくるからダメなんだよ、
と言われれば、ハリスは反論できません。
ここから、どの港を開くかについて、
火花散る激しい攻防が展開されます。
岩瀬はハリスに対して、横浜開港の Offer を出します。
横浜は江戸に近いので、幕府の管理下の元、
貿易で得た収入を幕府の財源に当て、
国防費に充てようという、岩瀬の計画があったからです。
ハリスは横浜開港を承諾します。
残る港は二つ。
ハリスは、大阪と京都開港を要求しました。
しかし、当時の京都には、
攘夷派という外国人排斥派の武人達が目を血走らせていました。
岩瀬はそのことを説明しました。
京都に外国人が入れば、攘夷派と衝突し、
それをきっかけに戦争になるかも知れないと訴えました。
また、京都は宗教的な土地柄であり、商業には向かないと、
これまた理論的に、京都開港を拒否します。
残るは大阪。
大阪は、当時の日本の経済の中心で、
日本の富の7割が集中していました。
日本の歴史教育では、
徳川時代の経済力や軍事力を過小評価していますが、
日本が黄金の国、ジパングと呼ばれたのは伊達ではありません。
でなければ、
Europe 諸国やRussia が執拗に付け狙うことはありません。
その日本の経済の中心地、大阪を手中に収めることは、
Europe に対して遅れをとっていた America にとって死活問題でした。
岩瀬は、京都開港を拒否する時、
京都は商業用の土地ではないから開けないと断りましたが、
今度はハリスが、その岩瀬の言葉を逆手にとって
大阪は日本一の商業都市なんだから、
断る理由はないだろう、と、逆襲に転じます。
さらに、京都は譲ってやってんだから、
大阪は絶対に開いて欲しいと激しく詰め寄ります。
ハリスはここで、日本が大阪を開かなければ、America は、
軍隊を派遣して戦争になるかも知れないと、
切り札を切ります。
ハリスは、日本に来た時、自分は、
England のような凶暴で理不尽な野蛮人ではなく、
平和の使者としてやって来た、と幕府に伝えました。
ハリスが軍隊派遣を示唆すれば、幕府からは、
お前も England と同じ穴のムジナだったかと思われるでしょう。
それほどハリスも切羽詰まっていたのです。
しかし、先に述べたように、岩瀬には、
幕府の管轄下の横浜で交易をおこない、
貿易で得た利益で軍備を増強するという構想がありました。
それなのに大阪を開いたら、
貿易の利益までも大阪に持って行かれてしまい、
岩瀬の構想がとん挫してしまいます。
大阪を開くことは、絶対にできない。。。
苦境に立った岩瀬は、大阪にも攘夷派が多く、
流血の事態が想定されると訴えました。
さらに岩瀬は、こう言い放ちます。
「大阪を開港すれば、日本で内乱が起こってしまう。
内乱が起こることは、外国との戦争よりも恐ろしい。
もし America が強引に大阪開港を要求するならば、
我々は、全力をかけて戦い、雌雄を決する覚悟である!」
この岩瀬の切り返しに、クロスカウンターを食らったように、
ハリスは言葉を失います。
いかに軍隊で脅そうと、ハリスは民間人で、
虎の威を借る狐してした。
日本と戦争となれば、ハリスは真っ先に殺されるでしょう。
武人の抜刀は、一般人の目には見えない。
ハリスは異国の地で、
いつ切られたかも分からないうちに死んでしまうことになります。
王手詰み。チェックメイト。ハリス、打つ手なし。
岩瀬に打ち負かされたハリスは、
目の前が真っ暗になります。
しかし、そこで岩瀬は、
「大阪は無理だが、兵庫ならば開港できる。」
と、助け舟を出します。
兵庫なら、大阪に近い・・
真っ暗だったハリスの目の前に、
一筋の光明が差し、ハリスはこの案に飛びつきます。
また、最初は3港しか開けないと言っていたのを、
横浜・神戸・新潟・函館・長崎の5港に増やしました。
このように岩瀬は、
相手を叩き落としてから救いの手を差し伸べる、
という方法をとったので、
条約交渉において主導権がとれたのです。
また、戦争も辞さず!
という態度を示すことによって戦争を回避するという、
高度な駆け引きも心得ていました。
なぜ岩瀬がこのような強気な態度に出られたかと言えば、
既に述べましたが、簡単に言えば、
この当時の日本は、America より強かったからです。
開拓時代の余韻が冷めやらない当時の America は、
この時点では、
日本と戦争して勝つだけの力はありませんでした。
ハリスが来た頃の日本は、
既に大型船や大砲を造っていました。
だからこそ攘夷派の者達は、
Europe やAmerica に対して、
武力で立ち向かえと叫んでいたのです。
岩瀬は、「開明派」という、
他国との交流によって日本の力を高めようという、
攘夷派とは相反する立場にいました。
しかし岩瀬は、反対派の攘夷派をもうま~く利用して、
ハリスとの交渉を優位に進めたのです。
今の外交や国防も、
右派も左派も上手に使いこなせる政治家が必要でしょう。