「新井白石」のキリスト教評 | Subaruのブログ

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既にもう、
何度か blog に書いていますが、

1549年にイエズス会が日本にキリスト教を伝えにきた時点で、
Spain, Portugal は既に日本侵攻を視野に入れていました。

そして、日本の先に彼らが見ていたもの、それは
「中国大陸征服」、
ひいては Asia 全体を手中に収めることだったはずです。

彼らにとっては、東洋の小国、日本など、
中国進出への足がかりくらいにしか考えてなかったかも知れません。

ところが、溯ること6年前、日本は、
種子島に漂着した Portugal 人から鉄砲を購入し、
宣教師のザビエルとかが来た時には、
既に何万丁もの鉄砲が日本で製造されていました。

小国と思ってなめていたら、
実は軍事大国だったというわけです。

武力では日本を落とすことは難しい。

そこで、Spain, Portugal は、
キリスト教布教を通じて、日本人に、
Spain 国王に臣下の礼をとらせるようにしようと画策します。

ところがこの布教もまた、何と言うか、
キリストの愛とか、平和思想とか、
いわゆる「なかなか良い話し」としては、
日本人に好感を持たれはしたものの、
今一つ盛り上がりに欠けたというか、
日本に既に存在していた宗教や、
他の信仰を捨ててまで信じたいと感じる程の impact を与えるとこまではいかなかったようです。

ちなみに、
当時日本で最高の頭脳を持っていたとまでいわれる新井白石という人物が、
宣教師の一人であるシドリッチという人から、
キリスト教とはどういう教えであるか、
説明を受けたことがあります。

白石は、Europe から来た科学技術に感銘していたため、
どんな凄いおしえなんだろうとワクワク感を持って聞いたかも知れませんが、
シドリッチの教えを聞いて、かなり拍子抜けしてしまったようです。

これは、私も聖書を初めて読んだ時感じたことですが、
聖書とは、基本的に物語を集めた書物で、
その中には、ロバがしゃべっただとか、
おとぎ話の用な内容も多く、
仏教典のような教典とは、およそ程遠いもので、
教義面で言えば、単純な教えです。

そのキリスト教の説明を受けた白石が、その所感を述べています。
なかなか興味深いだったので、
その所感の一部を以下に載せてみました。

(全文)
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/night-tale/011.htm

キリスト教への批判

白石は、シドッチがキリスト教を説く際、その内容はまったく荒誕浅陋(大袈裟で事実ではなく、しかもあさはか)で、議論の対象にもならない。と言ったという。

天地創造神の矛盾

シドッチの説では 「西洋語でデウスとは創造主という意味で、その天地万物をはじめから造ったものを指している。天地万物自ら生まれることはなくて、必ずこれを造るものがある」と力説する。その説の通りなら、デウス自体を何ものかが造って、天地がまだ存在しない時点で生れたことになる。そうでなくてデウスが自ら勝手に生れるのなら、天地も勝手に生まれておかしくない。その上に、「天地がまだ存在しない時、まず善人のために天堂(天国)を造った」という説だが、天地もまだ生じていないのに、人の善悪がすでに決まっているというのも理屈に合わない。そもそも、その天地人物の始めから、天堂地獄の説に至るまで、すべて仏教の説に基づいて造られており、その説をつくるのだから、わざわざこのように論議する必要もなかろう。まずハライソという天国を作ったという話は、「この世の初めの天地で風が吹き水が減って、次第に沫になり、それが変化して天空となった」という話が荒唐無稽なのと同様に根拠がない。エンジェルの説は光音天人の話に似ており、マサン(リンゴ)を食ったという話も、「地味を食って身体が重くなって天人の光が消えた」という話と同じである。「粳米を食って、男女の形が分かれた」という話に似ている。

贖罪論の矛盾

「天戒を破った罪(神の言いつけに背いてリンゴを食べた)が大きいので自ら贖うことができず、デウスがこれを憐れんで、三千年後にイエスになって生れて、罪を贖えた」という説など、まるで嬰児のたわ言である。一方で刑罰をつかさどるものが、一方であわれむべき情を発して、罪を許そうと努めている。マサンを食うなという天戒自体、そもそもデウス自身が課したものではないか。自分が課した罪をゆるすのに、なにほどのことがあろうか。さっさと許せばいい。いわんやその罪といったら、マサンという果物を食ったという些細なことだ。まちがった食事の罪なぞ、何故食った当人が自ら贖うことができず、三千年後に再びデウスが代って罪をうけるのか、そんな必要はないではないか。デウスがアダン(アダム)のために罪をうけるのなら、デウス(キリスト)を磔にしたものの国を滅してしまえばいいではないか。

儒教から見た天主批判

キリスト教では、そもそも天主が天を生じ地を生じ、万物を生ずる大君大父だとしている。そんなことを言われては、父がいても愛せず、君があっても敬わないことになる。これこそ不孝不忠である。まして、その大君大父につかえることに最大の敬意尊敬を払えというのだ。「礼記」によると、天子の仕事には天の神を祀る仕事も含まれ、諸侯以下の人は敢えて天を祀る仕事はしない。身分の尊卑をみだしてはいけない故である。けれども、臣は君を以て天とし、子は父を天とし、妻は夫を天とする。だから、君につかえて忠であることが天につかえることである。父につかえて孝なのも、天につかえることになる。夫につかえて義なら、それも天につかえることになる。三綱の常つまり君臣・父子・夫婦の間以外に、天につかえる道はない。君以外に仕えるべき大君があり、自分の父以外に仕えるべき大父がおり、それが自分の君や父以上に尊いとすると、家に尊ぶべきものが二つあり、国に主君が二君あるというだけでは済まない。君を無視し父を無視することになり、極端に重大なことになる。たとえその教自体が、父を無視し君を無視せよとは言わなくとも結果は重大で、必ず君を殺し父を殺すことになっても当然ということになるかも知れない。

ノアの洪水の矛盾

デウスが世界中の人を溺れさせ、教にしたがうものだけに海中の路が開け、またその乗船した船が、大水に漂ひ来りし所の蠣殻の類、現在もあるという説なども納得できない。デウスはそもそも自ら天地人物を生ずる能力と養う能力があり、大公の父で無上の君というではないか。それならデウス自身が皆を善人につくって、全員をその教えに従わせればいいではないか。それができないで、世界中の人を洪水で絶滅させるとは何事か。デウスといえども、人をして皆このような善人にはできず、皆この教えを信じさせられないというなら、デウスを天地創造の主とは到底言えないではないか。たまたまひどく愚で、教があることを知らないものがいたところで、そのものに何の罪があり咎めることがあろうか。それなのに、世界の人をことごとく絶滅させておいて、世界を生み世界を養う大父大君と自称するのはおかしいではないか。怪石で船の形(舟形地形)に似たものや、断崖に螺の殻があるなど(かつて海があった証拠となる地層)、どこの土地にも似たものはいくらでもある。日本にももちろんある。そんなものが、特にデウスに関係があるものか。

十戒と仏教の説との類似

十戒というものにしても仏教の説に載っており、ただその他犯(姦通)の戒を、二条に分けているだけだ。今その説を問うと、法王を始めとして、そもそもその徒弟たるものは、皆女子に近づくこともゆるさず、その他尊貴の人でも一妻の外に他犯はしないという。理由は、夫婦相和しでなければならず、乱れは必ずその邪淫によるという。しかし、世間には父がありながら、その生母の故に子をにくむ例もある。子側から、生母の故に父を怨む場合もある。母が同じなら相愛し、母が異なる場合は相憎む。父子兄弟が和らかでないのも、時には他犯による。だからこそ、その禁は特に重いという。古来、西洋の諸国戦乱のことをきくと、嗣子が絶えた故によっている。宗教の戒律の結果がこれほど重大なことになるのも、哀れなことである。

イエス誕生の際の瑞兆と釈迦誕生の際の瑞兆との類似、他

イエス誕生の際に、種々の瑞兆があったという。自らデウスの生まれ代りと称している話は、釈迦の生れに際して種々の瑞兆を生じ、「天上天下唯我独尊」と自称したという話と同一である。磔で殺された後に蘇生して、母親に会ったという話だが、これとて小瞿曇が賊とされて木で身を貫かれ、立てて以て標とされ、それを師の大瞿曇が、弟子の小瞿曇の血をとって人をつくったという話と同じだ。教皇シルウエステルが国君の頭頂に聖水を灌ぐ話も、大梵天王が四大海水をその大子の頂上に灌いだという話と同じである。皇帝がローマを施入して精舎を建てたという話は、瓶沙王がからんだ竹園精舎を献上して、僧の修練所としたことに似ている。私は西洋の事柄にことごとくに通暁しているわけではないが、大体のところキリスト教の由来は、仏教の教えから出ているようである。

訳註:小瞿曇と大瞿曇:インドの説話で二人の僧侶の名。小瞿曇は大瞿曇の下で修業していた。小瞿曇が賊とされて木で突き殺されてみせしめにされた。それを師の大瞿曇が悲しみ、その血から土偶をつくり、それがやがて人になったという話。

キリスト教は仏教の焼き直し

「キリスト教は仏教のカスを陰(ひそ)かにぬすんで作ったもの」と、鐘子(鐘始声)が言っているが、今その説を踏まえてオランダ鏤板の地図をみると、そのデウス降誕の地のユダヤというのは、西印度地方からあまり遠く離れてはいない。シドッチの説では「ユダヤだけはイエスが生れる前に、デウスの教があることを知っていた」という。この他では、こんな風に皆仏教を尊信していたと解釈できる。西天浮図の説(仏教)がこの地方で行われていたことは、イエスの教えに先行していることの証拠である。イエスの教えをきくと、浩像あり、受戒あり、灌頂あり、誦経あり、念珠あり、天堂地獄・輪廻報応の説があり、仏教の言に似ていないことは何もない。しかも、内容が浅陋(あさはか)なことといったら、到底比較にならない。明の人が、自分の国の滅亡の理由を論じて、キリスト教がその一つだとしている。我国でこの数を巌重に禁じたのは、やり過ぎではない。影響力の重大さを知るものがいなければ、誰がこれを防止できるだろうか。「夷を以て夷を治む」という通り、仏教という外国の力を利用してキリスト教という別の外国に対抗したのである。その時の方便だったのかも知れない。しかし、それは狼を駆逐するのに虎をつかうようなもので、それはそれで懸念がないわけではない。

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博識の白石さんにかかったら、
世界宗教もケチョンケチョンですな。。

ちなみに、世界の Super Star、
イエス様の擁護のために一言。

イエスの生涯は33年と短く、
公生涯はわずか3年半。

しかもユダヤ社会で仏道を説いたんだとしたら、
それはそれは、困難を極めたと思いますよ。

実際、イエスの教えは当時、
ユダヤの人々からほとんど理解されてなかったようです。

あるいは Christian 達からさえも、
その教えの本質は理解されてないかもね。

残念というか。。。