一人の女性が Christian の boy friend に出会うのですが、
その男女二人が、以下のような会話をします。
女:(男に向って)あんた、Christian なんだ。
私、Christian じゃないけど、まずい?
男:俺は No problem だよ。
女:No problem なの?
男:だって、俺が地獄に行くわけじゃないからね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記の会話、
Comedy 番組とはいえ、
キリスト教の特徴を良く捉えていると思いました。
しかし、イエスが直接語ったみ言からは、
上記の会話のような
「イエスを信ずれば無条件に救われる。」
という話は見出せません。
むしろイエスは、
「我が父のみ旨を行う者が天国に入る。」
と言い、「良きサマリヤ人」のたとえでは、
隣人愛の実践とは、
具体的にどういう風にやるのかを説明したと書いてあります。
しかし、時が経つにつれ、
パウロが説いたと言われる「信仰儀認説」、
つまり十字架信仰が主流となってしまいました。
生涯を通して善行をし続けるのは大変なことです。
それより、
イエスを救い主として受け入れれば救われるとすれば、
救いは一瞬で完了し、
天国行きが約束されます。
いわゆる、
受け入れられ易い教えが勝ち残ったという感があります。
しかし、この教義では、
善行や隣人愛の実践といったものは、
救いや、天国に行く条件にはならないので、
意識の面では後回しにされてしまいます。
そして、十字架信仰を生み出したもう一つの理由は、
ユダヤ教の伝統が背景にあったと思います。
ユダヤ教には、
到底守りきれないほどの多くの戒律があります。
そして、その戒めを守れなければ罰を受け、
殺されることもありました。
しかし、その罰を許されるために、動物を殺して捧げ、
その動物から流れる血を通して人の罪が許されるという、
いわゆる「贖罪信仰」というものがありました。
戒律を守りきれないのが前提なのだから、
献祭をすることが義務づけられた信仰ということになります。
キリスト教も、この贖罪信仰を継承しますが、
キリスト教の場合は、この供え物が、
動物ではなく人間、
しかも神の子になったということです。
つまり、人類の罪を購う為に、
神の子である生身の人間が、
生きたまま天に捧げられ、
その人から流れ出る血を通して、
人々の罪が許さる、ということになります。
「生け贄」とは、よく言ったものです。
しかも、それまでは捧げ物が動物だったのに、
今度はそれが神の子である人間になったのだから、
救いの効力も格段に上がり、
もう全人類規模で救われてしまうというような教義へと、
変遷を遂げていったようです。
しかし、よく考えてみると、
このような発想は、
結構血なまぐさいというか、
恐ろしい発想でもあります。
大変極端な言い方すると、
「他人の命を犠牲にして自分が救われる」
という見方さえ出来てしまうと思うのです。
Catholic 教会には、
十字架にかかったイエスの像があります。
また、信徒達は、自分の家の応接間や寝室に、
十字架を背負い、
むち打たれるイエスの像を置いていたりします。
私は、個人的には、
自分のご本尊様がむち打たれ、
いばらの冠をかぶらされ、
十字架を背負って血を流してる姿を見ながら、
「イエス様、私の罪を代わって受けて、
苦しみもだえて死んで下さってありがとうございます。」
と言って、心安らかに祈ったり、
眠ったりできるという感覚は、
なかなか理解し難いものがあります。
私はかつて、
「イエスが十字架で死んだのは良くなかった。」
とか、
「教会から十字架を外さないといけない。」
とか言われて感銘を覚え、
Christian の方々にもそのように言ったこともあります。
我ながら、なかなか度胸があったというか・・・・
真相はともかく、もしイエスの生涯が、
あれほどまでに悲惨でむごたらしい story 展開でなければ、
その後のキリスト教の教義や歴史も、
違ったものになったかも知れません。
イエスが元々説いたと言われる、
善行、奉仕、隣人愛の実践は、
残ることは残りましたが、
神格化したイエスを信じることのみが救いの条件だという、
イエスの直接のみ言には無かった十字架信仰が主流になることにより、
キリスト教は、
いつしかイエスの元の教えからは距離を置いた、
教団中心の、権威宗教へと変貌を遂げていきました。
キリスト教は、
ローマにおいて国教化されましたが、
私は、宗教の国教化と人間の心霊の向上とは、
直接的な関係は無いと思っています。
むしろ、
キリスト教は国教化を通じて政治的な支配権を掌握し、
より一層人民支配を強めることに貢献したというのが、
現実に起ったことではないかと思います。
にほんブログ村