結局、従いたいけど、従えない自分がいる。


従いたいけど、従えません!


そう叫んだとき、ある聖書のことばが心に響きました。


だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、

自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
マタイ16:24


なんだか、従うか、従わないかで


神様との距離を測っていました。


従えないとき、神様との距離が遠くに感じて


従えたら、神様と近く感じたり


感覚的に感情的に距離を測っていました。


従うか、従わないかに焦点がいってました。



僕は、なんのゆえに、自分が神様の前に出れるのか。


従えるから、神様の前に出れるわけじゃない。


ただ十字架のゆえだ。


僕のために、架かってくれた十字架のゆえだ。


従えないときだけの十字架じゃない。


僕の人生のすべての領域で勝利をとる十字架だ。



僕の十字架。


全人類のじゃない。


みんなのじゃない。


僕の罪のために、


僕の人生を救うために


僕の代わりにキリストが架かってくれた十字架。



今まで重い十字架を背負ってました。


自分が背負わなきゃってがんばっていた。


でも、僕の十字架は、重くないんだ。


キリストが代わりに背負ってくれたから。


すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、

あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。

そうすればたましいに安らぎが来ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
マタイ11:28-30


教会の前に掲げてありながら、


クリスチャンが教会の奉仕で疲れてしまい倒れそうになることがある。


神様に祝福されたい。用いられたいとがんばって


重いくびきを負ってしまう。



自分の十字架を背負うということは。


いつも十字架の救いに感動し、感謝することだ。


軽くなった自分の十字架に喜ぶことなんだ。



その救いの喜びこそ


キリストのついていく原動力だ。



クリスチャンを何年もやっていて


伝道することが難しかったり。


従うことが難しかったり感じていた。



救いの原点に戻ろう。


喜びの原点へ。



自分の代わりに架かってくれた


キリストの十字架だ。



そこに復活の命があり。


生きる力がある。


それを味わっていく。



それがキリストに従うことなんだよね。



やっぱり十字架なんだ。


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