口で言うのはやすいことだが、現実に表現が物を言うようなことは、なまやさしい作業でなし得られるものではない。

「さぁ〜自由なものを作ってみろ」と解放されたとしても、決して自由にはできないものである。

第一過去の人間が作った美術に充分心眼が開かなくては、かなわぬことである。過去と言っても千年も二千年も前からの美術・芸術に眼が利かなくては、かなわぬことなのである。

食器師だからと言うので、陶器ばかり視ているくらいの注視力では、乙な器は生まれるものではない。
三百年の茶碗が作りたければ、千年前の美術がわからなくてはかなわぬものである。

料理なども細民の美食から大名の悪食にまでに通じていなくては、一人前の料理人とは言い難い。

それには恐ろしいまでの努力が必要であって、調理場ばかりで十年二十年の苦労を積んでみたとて、料理を語る段階には至らぬものである。

乞食になってみるのもムダではない。虚飾でかたまっている大名料理を経験してみるのもムダではない。

本格な床柱を背に大尽を決めこむようなこともたびたびあってよい。

陶器する心も、ほぼ同じである。


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先日、家族で訪れた島根県「足立美術館」で、生まれて初めて「北大路魯山人」の作品を観る機会を持つことが出来ました。そして、その時に出会った言葉.....


「自由」という言葉は、とても大好きで、よく使うことがありますが、あらためて「自由の意味」を考えさせられました。

「料理の世界」と「陶芸の世界」、そして自分のおかれている「自転車の世界」や「子育て」「人生」に言葉を置き換えてみました。

10年 20年の苦労を積んでみても、それぞれの世界のことを語るという段階には至らぬもの。

これまでの自分が歩いてきた道、また今歩いている道を、振り返ってみると.....


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「言葉」が グッサッと胸に!!!




まだまだやれること山ほどあります。



God bless you !!!