前回もネタにしたが、神奈川は全然雨が降らないせいで、各ダム湖が干上がっていってるらしい。

 

 

何か上の記事の橋、見覚えがある。
これ、このまま進むと左右に街並みがあって、「ようこそ清川村へ」というアーチがあった場所ではないかと思う。
高校2年、昭和57年ごろに峠道を開拓していた頃に通った。

釣りへの情熱を失いかけていて、バイクで峠道を走るのが楽しくて仕方なくなっていた頃だ。
大垂水などの有名どころは見物人が多いは転倒したバイクがまき散らすオイルが多いはで、足が遠くなっていき、地元の人にも迷惑をかけそうにない場所を開拓。
 

最終的に、まだ県道から国道になったかどうかの頃の道志道を見つけ出した。
道は細いしデコボコで未舗装路もあって、オフローダーが時折走ってるような道。
峠道としてはまだ無名で地元民しか知らない道だった。
特徴として、神奈川県側の多くが斜面の右側で、右コーナーの方が見通しが良い。
おかげで日本の多くのライダーは右コーナーが苦手なのに、自分は右コーナーの方が得意と言うかフルバンクさせても怖くなくなっていった。

そんな道志道も工事だらけの時期があって、そういう時は清川の道に行く時があった。
清川は、昭和50年代はトライアルバイクの聖地とも言われていて、道路で行き交うバイクはトライアルバイクが多かった。
河原に降りたトライアラーが器用に大きな岩や崖を走破していくのをみて感心したものだった。

 

それから5年くらいは、釣りは年に1~2回に減少。
大学に進学してバイトを掛け持ちしてトランスポーターとして中古のハイエースを買い、F3仕様のバイクで富士や筑波、菅生に通っていた。予選落ちしたが鈴鹿4時間耐久もエントリーした。

全力と言うか(今から見れば)命をかけて走っていたが、才能の無さに気づいて引退。
その高ぶった情熱のノリで釣りに復帰して、どうしようもない釣り廃人になっていきました。

昭和の時代の琵琶湖北湖。

さて、その後十数年を経て黒沢氏と再会。
バイク同様、探求心と言うか探検、開拓意識はその頃も旺盛で、宮〇瀬ダムの開拓を開始。

 

私が開拓し始めた2000年ごろは釣りや岸際への立ち寄りは禁止されておらず、駐在所のお巡りさんも、挨拶すると「気を付けてねー」と声をかけてくれる、穏やかな時代だった。
Googleマップも無い、というか一般人はまだネットに馴染みの少なかった時代、地図を見ながら手頃な場所から開拓。
その情報は仲間内にすぐに広まってしまった。
さらに奥までグルグルと山歩きをしては、釣り師の痕跡の無い場所を探して探検。

とっておきの場所に黒沢氏を連れて行ったら、魚のサイズやコンディションに感動していた。
ところがすぐにそこも潰れた。黒沢氏の悪いところではあった。
まあ、それも承知で紹介したのだが、地元の我々だけではなく、他の連中も開拓していたのだろう。
年ごとに都内のナンバーや有名なトップの店のステッカーを貼ったクルマが増えてくる。
住宅地に隣接している場所での、夜間の大声や笑い声、ドアの開閉音が響き渡る。

 

ドリフトやってる連中のUターンエリアに駐車しての逆恨みトラブルなども聞かれるようになった。
結局、釣りや岸際の立ち寄りは禁止、という事が明確化されてから、私は行くのをやめた。
釣り人同士のトラブルも起き始めていたし、もう楽しい釣りは出来ない、潮時と思ったからだった。

 

その後、常識はずれのサイズの釣果の噂などが近隣の釣具店を賑わせたが、興味はなかった。
ゲームで言う、チートでの勝利のようなものだから。
 

そうこうするうちに、特定外来生物法が施行された。
傲慢、身勝手さの報いを釣り師がようやく身をもって理解し始める時期が来たと思った。