仲間と書庫の整理をしているところに、先輩導士が顔を出した。
「おい、誰か。
 ペルル導師の手伝いに行ってくれ」
 彼はすばやく手を上げた。
「僕、行きます」



 導師の執務室。
 深呼吸をしてから扉を叩く。
「…………」
 誰何の声はいつまでも上がらない。
 よくあることだ。

「失礼します」
 慣れたように彼は一言言って、中にはいった。
 壁という壁に取り付けられた書棚。
 整然と並ぶ書類たち。

 先代の総支部長は散らかし大魔王だったが、当時からこの部屋だけは綺麗だった。
 どうすればあの魔の手から逃れられるのだろうかと、不思議に思っていた。



 書類によって作られた通路を通り、机の向こうに回りこむ。
 彼女はいつものように、机の足元に座り込んで、ぶつぶつとなにやら呟いていた。

 ……言っておくが、呪術ではない。

「……導師?」
 背中を向ける彼女に声をかける。
「が生じた場合、障壁として有効……」
 気づかないのも毎度のことです。

「導師?」
「となると……そうか、アカセ式を用いれば、ここをこうしても……うんうん」
「導師……導師ぃ……?」
「……よって、この方程式は成り立ち、地精霊の視認が可能とな……」
 彼女はいきなり振り向いた。

「誰だ!」

「…………。
 お手伝いに上がりました」
「何!?
 いつの間に!?」
 ついさっきです。
 あなたが気づかなかっただけです。

 という諸々のことなど彼は飲み込んだ。
 毎回のことで、言い飽きたから。



「まずは、何をいたしましょうか?」
「んー……うーん、そうだな」
 彼女は、法衣のすそをパタパタと払いながら立ち上がった。

 書類の山のひとつ、比較的大きい束に手を置く。
「こちらの河川水質の資料がほしい。
 昨年から十年分ほどを集めてくれ」
「はい、導師」

 その次に、と彼女は隣の書類の束に手を移動する。
「こちらの河川近隣、ここ五年の毎季水位を調べてくれ。
 洪水による被害があった場合もだ」
「はい、導師」

 そして、と彼女の手はさらに隣の書類の束へ。
「これは……ノウ地方の支部からの依頼だ。
 質問事項がずらーっと書かれている。
 適当に答えておいてくれ」
「はい、導師」

「それから、これ、は……」
 はた、と彼女の手が止まる。
 それは手紙の束だった。
「これは要らない、と」
 無造作にゴミ箱にポイっ、された。

 おそらくアースロンだとかアイスノンだとかいう男からの恋文だ。
 懲りないヤツ。



 そこで彼女はうん、とうなずき、彼を振り返った。
「今日はこれくらいでいい」
 今の三件すべてを今日中にやれということだ。

 悪魔だ。
 悪魔が降臨した!

 しかし、彼が任された書類の山は三つ。
 残りの十山ほどは彼女が片付けるつもりなのだ。
 頭が下がって床に付く思いだ。





 こつん、と何かがひたいに当たった。
 いつの間にか本にひたいが付くほど顔を近づけていた。
 よく見えないのだ。

「……あー」
 見えないはずだ。
 室内は薄暗い。
 いつの間にやら夕暮れも、大森林の向こうへ去ろうとしている。

 凝り固まった肩をほぐそうと腕をぐるぐると回す。
 明かりを点けようと立ち上がった彼は、ふと、部屋の主の姿がないのに気づいた。

「……導師?」
 集めた資料の本と書類の山を崩さないように、足元に注意しながら移動する。
 扉近くの戸棚から蝋燭を取り出し、小さく炎の呪文を唱える。

 手元の小さな明かり。
 心もとなく室内を照らす。

「導師?
 どちらですか?」
 そろそろと足を進める。
 小さな明かりは彼の周囲しか照らしてくれず、薄ぼんやりとしか見えない本の大軍が、今にも襲い掛かってきそうだ。



 彼女は机の向こうにいた。
 寝転んで、小さく丸まっている姿は子どものよう。

 彼は小さく笑った。
 かわいかったから。

 足音を忍ばせ、彼女に近づく。
「導師?」
 呼んでみる。
 起きない。

 細い肩をつついてみる。
 起きない。

 彼は慎重に自分の法衣を脱いで彼女に掛けた。
 静かな部屋では衣擦れの音すら大きすぎて、起こしてしまわないだろうかとドキドキした。

 もっと近くで呼んでみる。
「導師?」
 起きない。

 耳元に囁く。
「導師?」
 起きない。

 肩に手を掛けてみる。
 細い。
 小さい。

「導師?」
 起きないでください。
 呪文のように唱えながら、彼女の滑らかな頬に口付ける。

 ……起きない。

「ペルー……」
 起きないで。
 祈りながら、唇を重ねた。





 特異能力は数あれど、これほど意味のない能力はないだろうといわれた魔導士がいた。
 雲のペルルーペ。

 彼女は一見して、ごく普通の魔導士だった。
 もともとは研究者だったが、功績が認められ、世界で一番忙しい総支部に配属された。

 部下が仕事の手伝いを申し出ようものなら悪魔並に押し付けてくるが、自分はそれ以上の量をこなす才女。
 歴代の総支部長は彼女の仕事振りに満足した。

 ただ、彼女は特異能力者だった。
 どこが、と言われれば、言ってもいいが聞くほどのことでもないと誰もが言うだろう。
 それほど彼女の能力は役立たずだった。
 あっても良いけど無くてもいいものだった。

 だから誰も、彼女が特異能力者だと知ることはなかった。
 無関心でいられた。

 ある一人を除いては。





「……あ…………」
 うぐっ、とうめいて彼女が目を覚ます。

「また、おまっ……!」
 上半身を起こした彼女は手を振り上げたが、それは彼の上着を掴むだけに終わった。

 うめいて彼女は口元に手を当てる。
「ど、導師!」
 苦しそうな彼女の背中を摩った。
「すみません……」
「うぐっ、わるかっ……おもっ、うげぇえ!」
「あー!」

 にょろり

 彼女の口からなにやら白いものが出てきた。
 口元を押さえる指の隙間から漏れ出て、ふわりと浮かんで消える。
 それは……。

 雲───だと思う。



 すみません、ごめんなさい、と平謝りしつつ、彼は思った。
 いつになったら、彼女とまともなキスができるようになるのだろう、と。

 口付けすると雲を吐き出す彼女。
 と、その恋人は、同時に大きなため息をついた。