「…………………………」
 まさかルフェランたちも、こんなことは予想だにしなかっただろう。
 ヨウスもまさか、初日から迫られるとは思わなかった。
 しかもトルクに。
 いや、もちろんティセットやルフェランだったとしてもだ。

「……一回……だけ?」
 うんうんうん、と元気に首を振るトルク。
 昔知り合いが連れていた犬にそっくりだ。
(そうか、犬だと思えば……)
 人と犬では顔の形が随分違うが、想像力で補えばなんとかなるだろう。
 このままでは休ませてもらえないだろうし。

 腹を括ったヨウスは体を起こし、トルクに近付いて頬に手を添えた。
 顔付きも体も大人なのに、好奇心でキラキラ光る瞳は子どものよう。
(犬だ犬……。
 シロにジャレつかれてるんだ)

 そっと顔を近付けて、唇の端に唇を押し当てる。
「…………」
「うわー…………」
 トルクは新しい体験に感激したようだ。
 ヨウスも少し驚いたことがある。
「トルク……女の子みたいな唇だ」
「え!」
 本人も初めて知ったのだろう。
 心底驚いた顔をした。
「ウソだ! そんな……」
「でも柔らかくて」
「わー、わーわー、わわーわー!」

 それ以上は言わせないと叫びだすトルク。
 耳を両手で塞ぐと、自分の寝台に逃げ帰った。
 恨めしげに真っ赤な顔で振り返り、ヨウスに向かって一声。
「二度とするもんか!」
 毛布を頭から被って寝てしまった。
 この様子なら、二度と言ってこないだろう。

 しばらく毛布の小山を眺めていたら、案の定トルクは毛布を撥ね除け、子どものような寝顔を見せた。
 しばらくその寝顔を見ていたヨウスは、窓から差し込む月明りに誘われて寝台を降りる。
 窓枠に腰掛けて片膝を抱えた。

 頬にあたる暖かな微風。
 細やかな子守歌を紡ぐ虫の音。

 中庭を取り囲む無数の窓。
 その一つひとつに夢を見る子どもたちがいる。

 目的を持って集まった約数百人のうち、どれだけが夢を掴めるのだろう。
 果たせなかった者は、どうするのだろう。



 ――とりあえず生きてくれ
   今はおまえに生き残ってほしい

 自分を持って生きたいと戦った仲間が死んだ時、その分まで生きようなんて思う余裕もなかった。
 死した仲間を惜しみはしたが、その夢を肩代わりしようだなんて、大層なことができるほど強い者はいなかった。

 みんな、自分が生きることに必死だった。
 がむしゃらに戦場を駆けた。

 その時。
 大きな盾が前に立った。

『死にたがりは引っ込んでろ。
 生きたいヤツだけ、オレに続け』

 ふた名の英雄。
 世界で三つある称号のうち、二つを手にした唯一の存在。

 なぜ他国の抗争に参戦したのか、未だはっきりとした理由はわかっていない。
 だが、彼の影響力は大きく、交友関係のあったカザーカ公国王をも動かし、勝利を引き寄せた。

 どれだけの人間が彼を慕っただろう。
 崇拝しただろう。
 今はその地を離れているが、彼の名を高らかに呼ぶ声は未だ大きい。



 ふと、窓から身を乗り出して空を見上げる。
 大小の星が瞬いている。

 どこに居ても、空は変わらない。
 地上が血に濡れても朝日は差す。
 血色に染まった川にも雨が降り注ぐ。
 村の焼け跡にも月光は降りる。

 だから、眠れない夜があると空を探す。
 目に付いた星を数える。



 そんな夜を過ごせることの幸せを感じながら。
 星を百まで数えて、寝台に戻った。


   *  *


 ティセットはその日、決意を口にした。
 店を閉めた後に話があると言った時、ニッチ夫婦も何か腹を括ったような表情をした。
 気付いていたのかもしれない。

「学舎に戻ります」

 言葉にしてみると、意外と短い台詞だった。
 でも、やり遂げるのには思う以上のことが待っているだろう。

「お金はどうすんだい?」
 ニッチのお女将さんが心配げに尋ねる。
「貸してくれる人を探します。
 働き出してから返す仕組みがありそうです」
「当てはあるのかい?
 ヘンにボッタクられでもしたら、あたしゃ心配だよ」
「知り合いから当たってみます。
 ……わがままを言って、すみません」

 ニッチ夫婦は互いに視線を合わせ、微笑んだ。
「あんたがガンバリ屋なのは知ってるよ。
 同じような諦めの悪い子を、何人も預かってきたからね」
 気にするな、と低い声。
「若いうちじゃねぇとできないこともある。
 やりたきゃやればいい」

「学舎に戻ってからも、夜はうちに来てくれるんだろ?」
「は、はい! もちろん!」
「がんばれよ」
「はい!」

 二人の温かい気持ちに励まされ、ティセットは復学を目指すことになった。