息を飲む音がした。

 ピキッ、という音は何だろうか?
 椅子の軋む音だ。

 手が汗ばんだ。
 何かを掴んでいる。
 トルクの肩だ。
 まだ押さえたままだった。

 ゆっくりと、背中が回ってくる。
「ウグッ……」
 ルフェランが口元を押さえ、走って出て行く。
 ティセットの手を払ってトルクがそれを追いかける。

 背中が再び表を向く。
 胸の中央にある痣は刺青なのか、見たことのない形。

 左肩の肌の色が違う。
 火傷の跡だ。

 右腕をぐるりと巡る傷跡はギザギザとしているが、左腕から右脇腹にかけて走る傷跡は筆で書いたように真っ直ぐだ。
 真っ直ぐな傷跡は黒くて、最初は刺青かと思った。
 ヨウスの顔にも似たような傷跡があるので、刺青ではないだろう。

 他にも大小の傷跡が体中にあったが、前面はまだ耐えられた。
 ルフェランが見兼ねて逃げて行ったのは、背中だ。

 ヨウスが背中を見せた時、右の腰あたりにも手の平大の異物――火傷の跡があった。
 火傷跡の下部は下衣に隠れていたので、もしかすると手の平よりも大きいかもしれない。
 見てわかるほど皮膚の張れ上がった跡が残っていた。

 そして、背中を埋め尽くす鋭い傷跡。
 無数に、縦横に走る線。
 乾いて変色した皮膚の色が、元の肌色を覆うほどだった。



「確認できたら、出て行ってくれ」
 声に、ハッとした。
 傷跡だらけの体から視線を上げる。
「……ヨウ、ス…………」
 視線が、合わない。


 忘れていた。
 情事の跡などひとつもなかった。
 あっても、見つけられなかったかもしれない。
 それほど酷い体だった。

「おれ…………ごめん……ヨウス、あの」
「しゃべらない約束だから、聞かなかったことにする」
 ヨウスの声は驚くほど静かだった。
「出で行ってくれ」
「…………」

 ティセットは部屋を出た。
 階段を降りたところで先ほどの家人と会ったが、何も言わず家を出た。

 何も言えなかった。

 言葉が見つからなかった。



 しばらく歩くと、トルクの背中が道端に見えた。
 近付くと、ルフェランが屈み込んで吐瀉していた。
 その匂いに堪らず酸っぱいものが上がって来るのを、なんとか飲み込む。

 ティセットに気付いたトルクが「ヨウスは?」と尋ねる。
 首を振って応えた。
 トルクもまともな答えは期待していなかったようだ。

 しばらくしてルフェランが落ち着くと、並んで歩いた。
 会話はなかった。
 途中でティセットが別れる時も、トルクは手を上げただけだった。



 仕事はいつもどおりできた。
 ニッチ夫婦にヨウスのことを尋ねられた時は、平静を装うのに苦労したが。

 だが、ニッチのお女将さんは何かに気付いたようだ。
「今日はゆっくり休みな。
 明日も早いからね」
 最後の客を放り出し、明日の仕込みが終わって、言われた言葉にジンときた。
 涙ぐみそうになった。

「……ありがとうございます。
 おやすみなさい」



 裏口から店を出て、すぐ隣りの宿屋の裏口から中に入る。
 大きなお腹を抱えた宿屋の若女将が、フウフウ言いながらお湯を沸かしていた。
「エリルさん、俺が運びますよ」
「あら、ティス、おかえりなさい」
 助かるわ、と笑う宿屋の若女将。

「そろそろ寝てないと、生まれるんじゃないですか?」
 桶にお湯を注ぎ、蓋をする。
 そうねぇ、と曖昧に笑う宿屋の若女将。「実家に帰ろうかって思ったんだけどね、一人で寝てるのも不安でさ。
 ……子どもみたいだろ?」

 宿屋の若女将のお腹のなかには子どもがいる。
 じきに生まれて来る。

 ティセットには弟がいて、母が大きなお腹をしていた時を覚えていた。
 だが、まだ子どもだからと、弟が生まれる直前に近所の家に預けられたため、どうやってお腹から出て来るのか知らない。

 姉や父に訊いても、祖母や母や伯父に訊いても、誰も教えてくれなかった。
 子どもだから、と。



 お湯の入った桶を持ち、風呂場に運ぶ。
 三人の客が談笑していた。
 そのうちの一人がまだお湯を使っていなかった。
「お待たせしました」
 客の足下に用意してあった大きめの桶に湯を注ぐ。
 客は礼を言って、大桶から水を追加した。

 風呂場から出ると、他に用がないか訊いてから部屋に上った。
 窓を開けて、隣りの明かりを確かめる。
 明日も早いのに、ニッチ夫婦はまだ厨房にいるようだ。

 寝台に転がって、天井を見上げる。
 暗闇から梁がぼんやり見えた。

 起き上がって、また窓から外を見る。
 宿屋の明かりでニッチの店の裏口が見える。
 そこでチラチラと何かが動いた。
 宿屋の入口はティセットから見て右手で、通りに面しているから迷うはずがない。

 パラパラと雨が降り出した。