彼はそろそろ引退しようと思っていた。
 大きな仕事を終え、後継者たちは立派に任務をこなしている。
 その彼らの妨げにならないように、古臭い頭の導師は隠居して、庭先で日向ぼっこでもしていたほうが良いと思っていた。

 しかし。
 人事のお偉いさんから「東総支部長に任ずる」と任命書を無理やり持たされ。
 当時の東総支部長とその応援団(何だそれ?)から泣き落としで訴えられ。
 挙げ句、隠居中の師匠から「わたしが隠居中なのに、おまえまで来てどうするの」と叱られた。

 何なんだあんたら!



 しぶしぶ肩に乗せた肩書きは思った以上に重かった。
 こんなことヒヨっ子たちには任せられないと、思ってしまうほどの激務だった。

 いくつもの難題を超えてきた彼でもそう思う重任。
 何とかやっていられるのは、優秀な補佐役のおかげだと思っている。
 口に出しては言わない。



「レオ、こいつの期限は来季だったな。
 後回しにして、ザオの上げてやってくれ」
「はい、総支部長」

「ペルルはどうだ?」
「間に合いそうです。
 テトーが補佐に入っています」

 色黒で長身。
 あまり表情はなく生真面目で、好物はエビフライ。
 補佐の特徴といったらそれくらいだった。

 が。
 しかし。

 最近、恋人ができたらしい。
 信じられない。
 彼の半分以上も若造のくせに!

 しかも、その恋人はどうやら若い男のようだ。
 じゃれ付かれるらしく、よく傷をつけて帰ってくる。

 彼なんて、妻と別れてからの寂しい独身生活を何十年続けていると思ってんだ!
 ため息つくな!



「はい?」
「は?」
 大きな机の向かいに座る補佐役が、きょとんとした顔で彼を見ている。
「どうした?」

「何か言われましたか?」
「いいや」
 そうですか、と補佐役は仕事を再開した。
 その俯いた姿は、どこをどう見ても彼より劣る。

(何が違うんだ?
 何であいつは出て行ったんだ!?)
 今どこでどうしているのかわからぬ妻に心中、問いかけた。
 返事が返ったためしはない。





「総支部長は、以前はどちらにいらしたんですか?」
 休憩中、ふと気づいたように補佐役に訊ねられた。
「あー……」

 安月給超激務の年中人手不足な役導士。
 師匠の「いい経験になるわ」の一言で任ぜられてしまい、活躍してしまい、実は直師までしたことがある。
 実を言うと直師長を務めたことだってある。

 だから、以前は……と聞かれれば「直師長」と答えるだろう。
 答えられるものならば。

 直師とは、大魔導師直属導師。
 いわば大魔導師の専用小間使いだ。
 その人の足となって各地の情報を集め、手となって救い、あるいは処する。

 先代、先々代の大魔導師は暗殺までさせていたという、魔導士たちにとっては照らしてはならない暗部。

 今でも直師たちは、自分の本来の役目は師匠にすら明かさず、普段は役導士や教師、研究員などと姿を変えている。
 彼も、師匠に告げたことはない。
 兄弟弟子も知らない。

 それを、ここでさらっと言えるはずがない。



「…………役士」
「そうですか。
 わたしもです。
 お会いしませんでしたね」
「俺、北ばっかりだったぜ。
 おまえは?」
「西と、南を少し」

「南かー。
 南はあれだろ、発掘が長いだろ?」
「はい。
 研究員たちの護衛が多かったです」

「ありゃ長すぎだよな」
「古語の解読者が、慢性的に不足していますから」
「リディ語だっけ?
 おまえ、読める」
「まったく」
 補佐役は肩をすくめた。

「北は陣を敷くのも大変だそうですね」
「あぁ。まず雪掻きからだかんな。
 新米のころはこればっかりやって終わったんだぜ」





 新米のころ。
 歳を取った彼にも、若いころはあった。

 生意気で。
 態度がでかくて。
 不平不満を言うのが得意だった。

『口を閉じていろ』
 その先輩との初めての会話は、この言葉から始まった。

『はいぃい?』
『悪魔に魂を吸われたくなければ』
『うげっ……』

 北の大陸は悪魔の領域が多く点在する。
 一歩、横に逸れると悪魔に遭遇すると言われるほどだった。

『悪魔の前では静粛であれ』
『……なんスか、それ?』
『わたしの師の言葉だ。
 その人は、悪魔との契約で舌と目を失われた』

 若い彼は鼻で笑った。
『ダッサー』
 その人は眉ひとつ、動かさなかった。

『ひとつの村と、ひとつの帝都が救われた』

『…………』
 笑った口元を引きつらせた若い魔導士に、その人はいつもと変わらない淡々とした声で教えてくれた。
『言葉は盾で、剣だ。
 わが身ひとつ守れぬうちは、口を閉じていろ』

 その後、案の定、悪魔の領域に入り込んで悪魔に追い掛け回された彼を助けたのはその人で、恥ずかしさのあまり礼の言葉も言えなかった。
 そのことはずっと胸の中に残っていて、歳を取るたびに大きくなっていった。



 同じ役導士といえど、上位者と新人では任務の数も重要度も違う。
 同じ任務についても準備と後片付けしかできない新人に対し、その人は重要な個所ばかりを任せられていた。
 遠くから見ているだけだった。

 次に話す機会ができたとき、彼は弟子を持つ身になっていた。
 彼の顔を見て、その人は目で問うた。
『子どもが……落ちそうになったので、助けました。
 落ちるとき、木の枝に抉られたようです』

 その人は、あの時と変わらない表情で言った。
『傷を負うのは未熟な証拠だ。
 だが、その傷は恥じるものではない。

 ……おまえの、誇りだ』

 同じ口調。
 同じ低音。
 その人は何一つも変わっていなかった。

『ありがとうございます』

 あの時いえなかった言葉が、素直に言えた。

 羞恥は実となり。
 若さは熟れ。
 彼の中には素直さが根付いていた。

『ありがとうございます、レイ直師長』

 二度、同じ言葉を繰り返した。
 あのときの分まで。
 噛みしめるように、言葉にした。

 その人は何も言わず、ゆっくりとうなずいてくれた。





「総支部長?」
「んあ?」
 気づくと、補佐役が彼の目の前で手を振っていた。

「戻られましたか」
「どっか行ってた、俺?」
 思い出の中は息すら凍りつく寒冷地だった。
 今、彼は暖かな森林地帯の、書類に囲まれた部屋にいる。

「行かれていたようですね」
「んじゃ、仕事すっかー」

 それから午後まで書類の山に挑み、忙しなく昼食を取った。
 午後の便の書類を見て涙が出そうになった。





 傷のアーヴィン。
 静かなるレイスレイの後継者として直師長を務めた彼は、顔に大きな傷を追っていたため、そう呼ばれていた。

 先代と違い、不遜で大雑把な性格だった。
 だが、確実に受け継がれたものはあった。

『自分の身一つ守れねぇうちは、先輩の影に隠れてな。
 一人前になったら最前線で大活躍させてやるからよ』
 功績を上げることに急いていた新人たちの頭を乱暴になでながら、彼はいつも言っていたという。

『できないことは恥ずかしいこっちゃないさ。
 いつか、できるようになりゃいいんだ。
 諦めなかったやつの勝ちだ』
 自分もそうして、直師長の地位を得るまでになったのだと諭した。





 直師長という重任を終え、世界一忙しい役職に着いた歴戦の魔導士は、ふと、手を止めた。
「なぁ、レオ。
 今度ちょっと、時間空けてくれよ」
「何ですか?」

 彼は懐かしそうな笑みを口元に浮かべた。
「俺の大先輩の、墓参りに行こうぜ」