『わたしと、お友だちになっていただけますか?』

 友だち、なんて久しぶりに聞いた。

 遠い昔。
 まだ小さい頃。
 自分の特等席にもよじ登らなければ座れなかったくらい。

 ずっと、ずっと、ずぅぅっと、友だちだよ!

 あどけない子どもが自分の手を掴んで涙目で訴えた。

 細い亜麻色の髪、黄金色の瞳。
 空色のドレスに鈴のついた靴。

 両親にとってもかわいい我が子だっただろう。
 彼にとっても大切な友人だった。

 あんなことがなければ……。





「……い、き……って…………おい、レ……バーカ……ハーゲ」
 ふと、頬を叩かれて気づいた。

「あ……」
「大丈夫か?」
 上司が彼の頬を叩いた手を振っていた。

「昨夜も遅かったみたいだな」
 再び、忙しく手を動かす上司は視線も上げずに言う。
「はぁ……」
 彼は気のない返事をした。

 昨夜は新月。
 上司の許可をとり、いつもより早めに仕事を切り上げて外出する日。

 上司は何も言わずに許可してくれる。
 いや、訊かれも答えられないだろう。
 答えにくいことだ。



「これ、ザオに」
 上司が視線も上げずに書類を渡す。
 厚さ一センチほど。
「はい」

「これはペルルに。
 ヘンな絵描くなって言っとけ」
 書類の厚さ十三センチほど。
 一番上の書類の端には、怪物らしき生き物の絵。
「はい」

「こっち、おまえが目ぇ通してみろ」
 厚さ六センチほど。
 今日は随分、少ない。
「はい」

「これはどうかと思うけど……ま、一応だしてみるわ」
「本部への申請書ですか」
「無駄だろうから、クラットのやつ慰めといてな」
「覚えておいたらやります」
 彼は絶対にやらないだろう。
 いや、やらない。



 陽が空の頂点に昇りきろうかとするころ、二人の周囲を取り囲んでいた書類は半分に減った。
 絨毯の色が渋い黄色だと思い出すことができた。

 しかし、おそらく午後の便でまた大量の書類が運び込まれ、彼らを囲うのだろう。
 紙圧で死にそうだ。

 壁という壁は本棚が並び、部屋の中央に居座る大机に向かう二人。
 天井は精緻な細工の木梁が走っているのだが、この仕事についてまじまじと見る余裕ができたことなどない。
 おそらく上司も同じようなものだろう。

 書類が飛ばないように窓も細くしか開けられず。
 開けっ放しの扉の向こうから次々と声がかかるが、(どうせ仕事が増えるだけだから)半分以上は無視。
 彼は真面目が取り柄だが、面倒見が良いわけではない。



「総支部長」
 彼は頼まれた本を開き、上司に指差して見せた。
「このあたりで良いですか?」
「んー……あぁ、いいだろう。

 おい、これ……?」
「はい?」
 彼の手から本を取り上げ、上司がうーむと唸る。

「傷、深いな」
 言われて彼は思い出した。
 昨夜はちょっとした言い合いをしてしまったのだ。
 親指の付け根に大きなかすり傷を付けられた。

 昨夜の傷の犯人を思い出し、彼は苦笑した。
 泣いて謝らなくてもいいのに……?
(まだ子どもだな)



「うまくいってんのか?」
「は? はぁ……まぁ、ぼちぼち」
 なぜか知らないが、上司はいつの間にか、彼が新月の晩、同じ人物に会っていることを知っている。
 許可を取っているのだから当然かもしれないが。

 だからと言って、責められることでは、もちろんない。
 ただ、上司がこの件を口にすることは珍しい。

 もしかして、その人物が『彼』だと知ったのだろうか?

 …………いやいやいや。



「……何か?」
「うん? んー。
 いや、うん、最近な、傷が多いのがな、気になってな」
 喧嘩でもしているのではと心配してくれているのだろう。

 喧嘩別れできたらどれだけ平和になることだろうか。

 件の『彼』が悪いわけではない。
 『彼』は善悪どちらかというと善人だ。
 礼儀正しく、頭も良い。

 若者らしい元気な声は、彼も気持ちが高揚して明日もがんばろうという気に(そのときだけは)なる。
 箱入りらしい素っ頓狂な質問は新鮮で、彼を楽しく驚かせてくれる。

 この頃では籠いっぱいに夜食を持ってきて、品評会まで催されている。
 彼もお礼にと狐を狩って丸焼きにしたら、食べもののありがたみに気づいたと感動された。
 どうやら、食卓に並ぶ肉と野を駆ける動物たちが結びつかないような暮らしをしているようだ。

 忙しない日々の中での、楽しいひと時。
 それが、彼といるときだ。

 ただ、気軽に話題にできる人物ではない。



「ありがとうございます、総支部長。
 若いので、元気があり余って力んだようです。
 じきに慣れて落ち着くでしょう」
 気にしないでください、と彼が言い終わらないうちに上司の顔は真っ青になった。

 どうしのただろうか?
 今日の上司はいつも以上におかしい。

「あ、あのさ……」
「はい、総支部長?」
「おまえ……………………いや、うん、元気ならいいんだ」

 後味の悪い態度で上司は去っていった。
 一服しに行ったのだろう。

「……?」
 あの態度は非常に気になる。
 もしかして、彼が寝ぼけている間におかしな行動でもしていたのだろうか。
「………………」

 気になる。

 彼は思い切って上司の後をついて行った。





 長身、頑健、頭脳明晰。
 切れ長の目は常に厳しく光り、廊下を歩くと風圧で書類が舞った。(らしい)

 世界一忙しい東総支部の副総支部長は、部下からの信頼も厚い若者だった。
 ただ、残念なことに、彼には着任早々に恋人ができてしまい、数少ない女性たちは毎日ハンカチを噛む思いだったという。

 恋人とよく喧嘩をするのか、彼はいつもどこかに引っかき傷をつけていた。
 傷つけられても別れることができないほどの美女を、ぜひひと目見たいと誰もが思った。
 思ったので訊いてみた。
『どんな方なんですか?』

『……爪がスゴイ』

 副総支部長は恋人の爪がお気に入りなのだと瞬く間に広がった。
 そして女性たちが熱心に爪を磨きだすころには、副総支部長は「爪のレオナット」と囁かれるようになっていた。





 後に、女性たちの爪の過度の装飾が自分のせいだと知って悩む彼は、物陰から上司と部下たちの会話を盗み聞きした。

「あいつ、やっぱりヘンだ」
 落ち込んだ声で総支部長が言えば、部下がその肩を叩く。
「だーいじょうぶですよ。
 ここに来る人はいつもヘンな人です」
「そ、そうなのか?」
(納得するなよっ)

「先代のサーラ導師だってものすっごい散らかし魔でしたし、その前のアンダー導師は鍋を被ってたそうですよ」
(な、鍋?)
「股間に葉っぱ一枚つけて仕事してた人もいたそうですよ」
(それはヒドイ)

「とにかく、ここにまともな人なんでいないんです」
「気にしちゃいけませんよ」
「ハゲますよ」
「イモ、食べます?」

 部下たちに励まされ、上司はそうか、そうだよな、と放心状態でうなずいている。
「男と付き合ってるなんて、大したことないよな」
(…………何だって!?)

 それは知らなかった。
 上司は男性とお付き合いしているのか。

 だがそれよりも、相談を自分にではなく部下たちに持ちかけたことに、彼はショックを受けた。
 自分はそんなに頼りないだろうか?
 だから今日は目を通せといわれた書類が少なかったのだろうか?
 あぁ、なんてことだ……。

 彼はしょんぼりしょげてその場を後にした。
 その落ち込みようは、誰もが驚き、心配のあまり後をついてくるほどの暗さで、執務室に着くころには大行列になっていた。



 二人の誤解が解けるのは、まだ先のようだ。