不思議ねぇ、と妻が呟いた。



 彼の顔を初めて見たとき、妻は気に入ってくれたらしく、
「いい男ね」
と言って笑ってくれた。

 それでも、彼は思うに、妻は彼のもうひとつの顔のほうがお気に入りだ。

 なぜならば。
 妻は、新月の晩には必ずきれいな櫛を用意して待っている。
 彼が諦めた声で「またか?」と訊ねると、「そうよ、またよ」と言ってふっくらと笑う。

 そして、今のように彼を自分の膝の上に寝そべらせ、丹念に毛を梳る。
 あまりの念の入れように、禿げてしまわないだろうかと思うほどだ。



 妻との馴れ初めは、森の中だった。

 森は自分の縄張りだ。
 他人には迷いの森といわれようが、迷ったことなどない。

 妻はそのとき、彼の森で迷っていた。
 彼を見て彼女は驚きはしたが、邪まな感情を抱かなかった。
 気に入った。

 仲間の元まで帰りたいというので、近くまで送ってやった。
 ゆっくり歩いて、彼女との会話を楽しんだ。

 彼女はいろんなことに驚いた。
 ときおり笑って、喜んだ。

 もっと話がしたかったので、礼をしたいという彼女と再会を約束した。



 最初は、本当に興味本位だった。
 彼を見ても、彼に害を成そうという気を、彼女はまったく持たなかった。
 少女のように純粋な眼差しで彼と接してくれた。

 奇異の視線の中で育った自分にとって、彼女との時間はやっと手に入れた安らぎだった。



 兄に彼女のことを漏らしたのは、すでに何十回もの密会を重ねたときだった。

「やったのか!!」
 率直過ぎる兄の興奮を押さえるのに一時間ほどかかっただろうか。
 なんとか、自分たちの関係は純粋なもので、友人でしかないことを理解してもらった。

「それで、おまえはどうしたいのだ?」
「……わかりません」
「わからんのに、付き合っているのか……?」
「友人、ですから。会って行けないことは、ない、と……思います」
「……ま、そうだな」

 兄は納得がいかないようだった。
 彼自身、彼女とはよい友人関係を築いているから、自分でも満足していると思っていた。

 だが、兄の次の言葉で世界が少し変わった。
「おまえは、友人の席だけでよいのか?
 彼女に友人は多くいるだろう。
 その中の一人でよいのか?

 昼も夜もなく、たった一つの席を得たいとは思わないのか?」





 誰が、信じてくれるだろう。
 この身に流れる古の血を。



 彼は、生まれたときに耳が頭の側面にあった。
 側面というより上部にあった。

 毛深く、目が大きかった。
 歯が大きく、尖っていた。

『神子にございます』

 神官の言葉に母は震えたそうだ。



 兄は、人並みに生まれた。
 頑健な体躯に豪傑な意思の持ち主。
 彼にとっては唯一の理解者。

 母ですら抱くことを嫌がった彼を抱き上げ、あやしてくれた。
 くん、くぅんと鳴く彼の声を聞き分け、山羊乳をくれた。
 柔らかな櫛で毛づくろいをして、柔らかな爪を丸く削ってくれた。

 彼が人並みになったのは、それから五年ほどしてからだった。
 兄は変わり果てた弟の姿にショックを受けて寝込み、三日三晩、泣き明かしたという。



 人並みになったとはいえ、彼が神子といわれるものであることに変わりはない。
 人々は……父ですら頭を垂れた。

 窮屈な毎日に変わりはなく、彼を個人として接してくれるのはやはり、立ち直った兄だけだった。



 その兄が亡くなった。
 そのことを告げたとき、彼女は自分の身内が亡くなったかのように悲しんでくれた。

 本当に彼女は、悲しんでくれた。

 彼女なら、あるいは彼の理解者になってくれるかもしれない。
 そう思ったとき、兄の言葉を思いだした。

『昼も夜もなく、
 たった一つの席を得たいとは思わないのか?』

 果たして彼に、人並みの席は用意されているのだろうか。



 彼は弱虫だった。
 彼女への気持ちに気づかないふりをし続けた。
 拒絶の言葉が恐ろしかったから。

 彼女が、彼女の特別な席に誰も座らせないことにやきもきしながら、次の再会を約束しつづけた。





 そして、ある日。
 彼女がぽつりと呟いた。
「わたしも、迷子から抜け出したいわ」

 彼女と出会ってから、彼女の周囲の人間はくるくると代わりつづけた。
 彼女だけが取り残され、彼との夜会を何百回と繰り返した。

 彼女も寂しいのだと、気づいた。

 その頬を今にも涙が伝いそうだった。
 同じく、彼の思いも溢れそうになっていた。



「行くか、わたしと」

 おもわず、声が出ていた。
 彼女は驚いた顔で彼を見つめた。
「……なぜ?」

「おまえを愛しているから」

 そうだ。
 愛している。
 彼女の特別な椅子に座りたい。



 何百回と会い。

 何千回と想い。

 何億回と願った───。



 彼女の椅子は、まだ、空席だ。

「月のある夜も、わたしのそばにいてほしい」



 少女のように頬を染め、彼女はうなずいた。
 その手が初めて彼の毛並みに触れた。
 柔らかな女性の手だった。





 古い血の流れをくむ一族がいる。
 彼らの間にときおり、『神子』と呼ばれるご神体が生まれる。

 その姿は一見して獣だが、美しい森色の毛並みだという。
 叡智を備え、慈悲に厚く、五百の齢を生きる。

 神子は獣の姿で生まれるが、知恵が付く頃に人の姿を取る。
 その後は、新月の夜のみに獣に戻り、全領土を一晩で駆けるのだという。

 また、人の姿をとるようになってからは、獣の姿を見ることができるものは限られた。
 特別な相手にだけその姿を見せ、美しい毛並みに触れることを許した。

 長い孤独を生きる彼らの。
 忙しなく移り変わる時間の中で、唯一安らぎを得られる場所として。





 小さな村の外れの、小さな家。
 月明かりのない、蝋燭が灯す部屋。
 一人で寝るには大きいが、二人では少し手狭な寝台の上。

 とおの昔に神子を引退した彼。
 そんなことは知りもしない、知っても「まぁそうだったの」で済ませるであろう、妻。

 小さな友人ができたことを、妻は喜んでくれた。
 彼は単に、彼女の手料理を自慢したかっただけなのだが、予想以上に小さな友人は喜んでくれた。
 また一緒に狩りに出て、いつか本当に肩を並べるのもいい。



 彼は妻の膝枕で大きなあくびをした。
 ぞろりと並ぶ犬歯が剥き出しになる。

「あら、もうお寝む?」
「ん? ……いや、もう少し」
 そう、と妻が嬉しそうに毛づくろいを再開する。
 新月の晩にしか彼が獣の姿にならないものだから、今日を逃がしたくないのだろう。

 実は彼も、まんざら嫌いではない。
 それでもたまに、不安になる。

「…………。
 なぁ、サーラ」
「なぁに?」
「わたしは……獣のほうが良いか?」

 うふふ、と頭上で妻が笑う。
 前足の毛を櫛が撫でる。

「獣も、好きよ」



 あなたが、好きよ