廊下を歩く学生はいない。
 制服を着ていない女性が一人。
 講師でもないようで、ヨウスたち三人に気付くと頭を下げて行った。
(……侍女?)
 まさかとは思うが、有り得なくもない。

 いくつか並ぶ扉のひとつ。
 金髪が扉を叩くと、すぐに開いて別の上等生が顔を出した。
「いたのか……って、なんだ、男か」
 背中を押されて部屋に入ると、足下が心許無いほど柔らかい絨毯を踏む。

 パタン、と扉が閉じた。

 豪華な廊下に見劣りしない部屋だった。
 厚い絨毯の上に敷かれた肉食獣の頭部付きの毛皮。
 部屋の中央に佇む机と揃いの猫足椅子には、フカフカの綿詰め。
 暖期の今は使われていない暖炉の上には、見たことのある姿絵―――女皇帝だ。

「しかたないだろ?」
「合格点は貰えるはずだ」
 一人がヨウスの髪をかき上げ、仲間が持って来た整髪剤を付けて髪を固めてしまう。
 空気に晒された額がヒヤリと冷え、整髪剤の匂いが鼻についた。

 部屋にいた眼鏡の上等生は、ヨウスの顔を正面から見て、ふむと唸った。
 腕を組んで、ヨウスを頭から爪先まで眺める。
「刺青……いや、傷か?
 は、惜しいとして。
 ……確かに、合格点だ」

 最初の二人が目に見えて安堵した表情をする。
 一人訳がわからないヨウスは、慣れない整髪剤の匂いにくしゃみが出そうになっていた。
 水で洗って取れるだろうか?



 がんばれよ、と金髪がヨウスの背中を叩く。
 もう一人は眼鏡に「頼んだぞ」と言って、金髪と一緒に部屋を出て行った。

 取り残されたヨウスは、眼鏡の上等生と二人だけの空間に寒気を覚えた。
 広いはずの部屋が狭く重苦しく感じる。

「名前だけは聞いておこう」
 眼鏡が事務的に尋ねた。
「……クォーズです」
 ほう、と感心したように唇だけ笑う眼鏡の奥で何がか光る。
「二季目にして中級試験に合格したのは、おまえか?」
「……はい」

 拳ひとつ分ほど背の高い眼鏡は、少し屈み込んでわざと下から覗いてくる。
 距離の近さにヨウスが後退りする。
 その腕を掴んで引き止めると、眼鏡はニタリと笑った。
「残念だったな、クォーズ。
 おまえの自尊心は今からなくなる」

 なぜ、と尋ねる間もなく胸倉を掴まれ、強引に引き摺られる。
 入ったきた扉とは別の扉を眼鏡が叩くと、中から男の嗄れた声が誰何した。
「セラディンです」
 入れ、と嗄れ声が言った。

 開かれた扉。
 中からむっと匂ったのは酒。
 息を詰めて薄暗い中を見ようとしたが、背中を押されてたたらを踏む。
 あ、と思って振り返った時には、眼鏡の弓月眼と目が合った。

 パタン、と扉が閉じる。



 室内は薄暗く、窓幕から僅かに漏れる明かりでまだ夜ではないことだけがわかった。
 壁中に取り付けられた燭台も、一部しか勤めを果たしていない。
 部屋中を漂う酒の匂いも手伝って、古い酒場を思わせた。

 部屋の奥で、何が動いた。
 目を凝らしていると、それは立ち上がり、明かりのなかに移動する。

 腕が見えた。
 人間だ。

 人影は、顎まで晒したところで立ち止まった。
 青白い輪郭だけがぼんやりと浮かんでいるように見えるのは、白い制服を着ていないからだろう。
 裕福層らしい柔らかな生地をたっぷりと使った上着はよれ、前ははだけていた。

 なんだ、と青白い青年が呟く。
「男か」
「……頭数がいると聞いてきました」
「頭数、ね」
 ふん、と青白い青年が鼻で笑う。
「おまえひとりで、頭数か?」
「…………」
 答えが否定的な質問には沈黙で答えた。
 下手なことを言って、機嫌を損ねるのは拙いだろう。

「まぁ、いい。
 ……来い」
「…………」
 ヨウスはしばらく扉から背中を離さずにいた。
 相手が上等生で、寮室を二部屋を持つほどの人間なのだと思い出し、諦める。

 ゆっくりと歩を進める間、人影の頭部が上下する。
 吟味されている……。
 視線を直視しないように俯いていると、顔を上げるように命じられた。

 青白い顔が誰なのかわかるほどの距離まで近付く。
 見覚えはない。
 実は一度だけ会う機会があったのだが、ヨウスはルフェランの背中に隠れて見ていなかった。
 だからこれが初対面になる。

 ヨウスは止まる。
 青白い青年はふと笑い、手に持っていた酒杯を煽った。
「呑むか?」
「今はお気持ちだけ」
 二口ほど残った酒を差し出されたが、慎重に断る。

「呑んでいたほうが、楽だぞ」
「…………」
 渋々ヨウスは酒杯を受け取り、両手で持って煽った。
 呑んでいると見せかけて、酒は腕を伝わって袖口に消えた。

 唾を飲み込み、口元を拭う。
 袖口に染み込んだ強い匂いが鼻を突く。
 整髪剤の匂いと混ざって、またくしゃみが出そうになった。