「バッカだなー」
 わざと明るい声を出す。
「大事な試験前に、何やってんだよ」
「ティス……」
 ヨウスが顔を上げる。

 目元に挽き肉を付けたまま、ティセットは笑って見せる。
「俺は俺でなんとかやるよ。
 だから、ヨウスはヨウスで、がんばれよ。

 慣れるのに時間がかかってもいいよ。
 いつでもこうやって会えるんだから。
 これが当たり前だって思うようになる」「…………」
「そのうち新しい同室生が来たら、今度はおまえが面倒見てやらなきゃいけないんだぞ」

 ヨウスは力なく頷いた。
「……わかった」
 この気迫のなさ。
 どこかに自信を落としてきたのではないだろうか。

「でも、もし……学費を貸してもらえたら?」
「そりゃもちろん、シドルさんに抱き付いて喜ぶね!
 あ、でも、シドルさんのお腹に腕が回るかなー?」
 大袈裟に抱き付く振りをすると、ふふ、とヨウスが笑う。
 少し、元気が出たようだ。



「試験、がんばれよ」
「うん」
 ニッチのお女将さんが持たせてくれたお土産を手に。
 来たときよりも軽い足取りで、ヨウスは帰っていった。

 仕込みが終わる頃。
 扉を開けるより早く最初の客が入ってきた。
「準備中かい?」
 のっそりとした声に尋ねられ、開店を告げる。

 ティセットは驚いた。
 最初の客はトルクより大柄で、店の鴨居に頭を打ちそうなほどだった。
 袖から伸びる腕は長いだけでなく、ティセットの太ももほどありそうだ。

「酒と串をくれ」
「はい!」
 急いで厨房の親父ニッチに注文を伝え、先に酒をだす。
「はいどうぞ」
「おぉ」

 大男が酒杯に口をつけたところで、常連客がやってくる。
 店内はガヤガヤと賑やかな音を立てだした。
 比例して、厨房の熱気も上がる。
 ニッチの親父の額に汗が動き、酒樽がひとつ空いた。

 洗っても洗っても底の見えない流し台。
 客に啖呵を切るお女将さんの声。
 力を込めて作った串たちが裸で返ってくるのを見ると、痺れを堪えて作ったことなど忘れてしまう。
 ただ嬉しい。

「ティース!」
「はい!」
 お女将さんの手が回らなくなると、料理が冷めるのを嫌うニッチの親父の声が飛んで来る。

 甘辛パテスは五番机。
 三種タレの蒸し肉は二番机。
 お女将さんは酒を注ぐのに手一杯だ。
 十番机にも持って行く。

「はいお待たせココ鳥のマメ煮込み!」
「忙しそうだな」
「はいもう!」
 十番机は最初の客の席だった。
 待ち合わせの様子はなく、一人酒をしている。

「このまえ来てた美人は臨時かい?」
「美人?」
 もちろんそれはお女将さんのことではないだろう。
 申し訳ないが。

「美人って……あー、あいつ!?」
 そういえば、数日前にヨウスが開店の準備を手伝ってくれたことがあった。
 たぶん、そうだろう。
「俺の友だちですよ。
 たまたま手伝ってくれたんです」

 ふーんと頷いた最初の客はそれ以上の興味をなくしたようだ。
 会話が続く様子もないので、ティセットは次の料理を運びにいった。





 平和な国で生まれ、平和な国で育ったティセット。
 包丁は肉や野菜を切るものであって、人に向けるものではないことを常識としている。
 だが、そうでない世界もある。

 この出会い、この会話から、自分の世界が変わりつつあるなどとまだ知りもしない。
 もっとずっと後になって、最悪の場面で知ることになる。