ほぅ、と一息ついた。

 何度聞いたかわからない昔話。
 幼い頃聞いたものと変わらないはずなのに、なぜだろう、同じものとは思えない。
 政事にかかわるようになったせいで、違った見方をするようになったのか。

「今日は、ここまでにしましょうか」

 初めて出会ったとき、彼女は年上の女性だった。
 次には同じ年頃の少女で、今では年下に見える。

 なぜだろう。
 恐ろしくはなかった。

 まったく歳をとった気配はなく、正体すら不明だというのに、恐れる理由が思いつかなかった。
 それを問い詰める気が起こらない。

 隣り合って座り、話を聞かせてもらっている間、自分はまだ幼い少女のような気がする。
 せがめば何でも叶えられた夢のような日々の続きを味わえる。

 それが心地良いのかもしれない。
 もう誰も自分をそんな気持ちにさせてはくれないから。

 昨夜は月を見なかったので、月が消えたかどうかはわからない。
 満月はまだ先だ。
 だからといってそれは最初のときの約束であって、今日はなんとなくここに足を向けただけなのだ。

 一人になりたい理由はいくつもあるし、誰も今の自分には逆らえない。
 しぶしぶ引き下がった騎士たちを置いて、一人、森に入った。

 見ていたのだろうか。
 金の髪の少女は待っていた。

「久しぶりね。
 続きを話しましょうか」

 二年前と変わらない姿でそう言った。
 彼女の姿に呆然としたが、いわれるままとなりに座った自分にも呆れる。



「結婚、するの……」
「まぁ、結婚? おめでとう!」
 少女は嬉しそうに笑った。
 金色の髪がふわりと揺れる。

「いつ?」
「秋に」
「お相手はどんな方?」
「九年も婚約者だったの。
 物好きよね」

「あら、ステキじゃない。
 九年も待っていてくれたんでしょ?」
「だってわたし、そのとき王女だったのよ。
 今なら王夫になれるわ。
 すばらしい出世よね」

 少女は目をまん丸に見開いて、ぽつりと言った。
「あなた、王女様、だったの……?」
「…………」

 これにはマリーも驚いた。
 今の今まで、彼女は自分のことを何だと思っていたのだろうか。
 知らずにずっと付き合っていたというのなら、世間知らずにもほどがある。

「今は国王よ。
 見えない?」
「ご……ごめんなさい。
 見えなかったわ」
「……そう」

「わたしったらまた……。
 この前もね、男爵とは知らずに余計なこと言ったの」
「なんて?」
「『少しお菓子を控えたらどうです? お腹の皮が足りなくなりますよ』って。
 わたしてっきり、出入りの商人かと思って……」

 ここまで素直に言われては怒れない。
 王族と知っても変わらない彼女の態度は清々しく、かえっておかしさがこみ上げた。

 マリーが声をあげて笑うと、少女も一緒に笑った。

「今日は初めて笑ったわね」
「そう、かしら……?」
「そうよ。
 最初は眉間にシワなんかよせて、難しい顔してたわ。
 もしかして、旦那様になる人のお腹の皮が足りないの?」

「ぷっ……」
 おもわず吹き出したのをそれ以上は食い止める。

「彼は、痩せているわ。
 もう少し太ったほうがいいくらいにね」

 それは難しい注文だろう。
 彼は今も机に張り付いて唸っているはずだ。
 太るほど食べる暇などないくらいに。



 即位して一年と少しが経つ。

 飢饉による民衆の暴動はやや下火になりつつあった。
 それは食糧難が改善されたからというわけではなく、ただ疲れたのだ。
 奪い合う力もなくなり、泣き暮らす人々が増えたのだ。

 将軍となった兄は去年の夏から戻っておらず、帰還の目処も立っていない。
 報告書とともに届けられていた妹宛ての手紙も、いつからかなくなった。

 夫となる予定の人は一日中机にしがみつき、大出世したことにも気づいていないようだ。
 時には人を集めて夜が明けるまで論議を交わすため、婚約者への恋文のひとつもない。

 昨年亡くなった母は最期まで国を案じた。
 在位中に自らを飾った宝石の大半は売りにだしてくれとまで遺言で呟いた。

 王騎士として役目を終えた父は親善大使として弟国に赴き、今も救済に走り回っていることだろう。
 東から西にかけて海に面した弟国は、南からの海賊にまで脅かされている。

 それでも国は、傾き続けた。



「なぜかしら……?」
 マリーはポツリと呟いた。
「どうしたら、いいの?」

「どうしたいの?」
「助けたいの。
 民を。
 兄たちを……。
 わたしはただ励ますしかできないわ。
 でももう、限界。
 なにか……」

 この両手で土を掘れば水が湧き出すのならそうしよう。

 桑を手にして田を耕せば実るというのならそうしよう。

 天に手をかざせば嵐が収まるというのならそうしよう。

 ───そんな奇跡は起こらないと、もうマリーは知っている。

 悲しいくらい現実をかみ締めている。
 その苦さを知っている。

「諦めたくないのね」
「ダメよ。
 諦めてはいけないの。
 王は民が最後の一人になっても、救うことを諦めてはいけないの」

「それは、あなたの意志?」
「え………………?」

「あなたが本当に思うことなの?
 民を救いたいと、心から願っているの?」
 吸いこんだ空気が体の中で拳となって胸を叩いた。
 息苦しくて、喉がひゅーと鳴る。

「答えて。
 民を救いたいの?
 ……真意は、どこ?」
 青い瞳がマリーを見つめた。
 胸を切り開かれて覗かれているようだ。

 もう彼女は答えを知っているのだろうか。
 知っていてあえて訊ねているというのか。

 答えなければ、どうなるのだろう。

 違う答えを差し出せば……。

 ゴクリと、喉が鳴った。
「怖いの」
 蝶の羽ばたきのように声が震えた。

「一人はイヤ。
 置いていかれたくないの。
 たくさんの人が笑いあう中で、わたしも笑っていたいの」

「笑えば良いわ」
「誰も笑っていないわ。
 一人では嫌なの」

「みんなを笑わせればいい」
「どうやって?」

「どうすればいいと思う?」
 また、投げかけられる。
「どう…………?」
 どうしていいのかわからないから、悩んでいるのだ。

 マリーは困惑した。
 なぜこんなことを聞かなければならないのか。
 彼女は自分に何をさせようとしているのだろう。

「願い事があるなら、叶える方法もあるわ。
 あなたの願いは何?」
「笑って……みんなで笑っていたいの」

「どうすれば、みんな笑ってくれるのかしら?」
「幸せで……」
 マリーは首を振る。

「生きていけるだけの食べ物と、雨風をしのぐ家、寒さをしのぐ服があれば良いんだわ。
 それから、侵されぬ意志と」

 朝陽に向かって天帝に祈りを捧げ。
 陽が高くなるまで仕事に遊びに精を出し。
 午後のまどろみを輪になってすごし。
 陽が沈む前に家路につく。
 瞬きだした星々に今日の終わりを告げ。
 明日がまた訪れるようにと祈りながら眠りに就く。

 日々の暮らしは大きく変わることがなく退屈かもしれない。
 けれどその退屈こそ平和の証しではないだろうか。

 休む間もなく戦うよりも、忙しなさに隠れる時の流れを知らないよりも、繰り返される平穏な日々を誰もがほしいと願うだろう。
 かつて涙ながらに和平に調印した一決王も、草原の丘の上で花冠をいただいた青眼の聖女も、そのために立ち上がったのではないだろうか。



 立ち上がりなさい


 諦めてはいけない


 青眼の聖女は多くの民に向かって叫んだかもしれない。

 けれど本当は、自分にそう言ったのではないだろうか。
 細腕の女の身を甲冑に包み、戦場を駆け回る恐怖に立ち向かうため、自分も鼓舞し続けたのでは。

「わたしは……」
 自分の両手を見る。

 白く美しい手と侍女たちは褒めるが、この手は花の種の撒き方すら知らない。
 どんなに美しい花が咲くとわかっていても、咲かせ方がわからなければ意味がないのだ。

「わたしは、政事はわからないわ。
 でも……ウォリアン様たちは、ご存知なの。
 国庫の残りが少ないのはわたしも知っているわ。
 それをやり繰りするのは財務官なの。
 わたしではないわ。
 わたしは……」

 何をすればよいのか。

 笑いあっていたい。
 たくさんの人たちと。

 どうすれば良いのか。
 自分に何ができるのか。
 自分がもつもので、人々のために生かせるものは何か。

 今、人々は、何を欲しいと思っているのだろう。
 切実に願うものは何だろうか。



 髪が揺れた。
 兄たちと同じ柔らかな栗色の髪。
 風が撫でていく。

 視線を上げると、目の前には堂々とした幹の巨木があった。
 あれはいつから自分を見ているのだろう。
 いつからそこにあったのだろう。

 その見事な枝ぶり、葉の茂りよう。
 春には実を付けるものもあるだろう。

 実を───。

「……実が……ある…………」

 瞬間、恐ろしい、と思った。

 この大切な森の庭にはいったいどれだけの食べ物がなるのだろう。
 それはどれだけの人を賄えるのだろう。
 ───そう思った自分が恐ろしい。

 森の庭はかつて、シュワルドの聖女が戦死した友人に贈ったとされるものだ。
 聖女誕生のときから陰日向となり支えてくれ功績を称えるものだ。

 百年以上も昔のことで、王家の中で逸話として語り継がれてきたものだから確証はない。
 それでも代々の王はこの庭には手を出さず、あるがままの姿を守りつづけてきた。
 嵐で木が倒れても、病で葉が枯れ去っても、泉の水が溢れても放って置かれた。

 王家の財産であって、王宮に庭であって、けれど所有物ではない。
 王家はただの管理者でしかない。



 視界の隅で何かがちらついた。

 蝶だ。
 ひらひらと舞って低木の小さな花の蜜を吸う。

 あの低木の葉は確か薬草になりはしなかったか。
 そのそばにある木は硬い殻に覆われた実をつけ、その根元に群生する蔦植物は赤い実をつけたはず。

 白い花、あれは花びらごと食べられた。
 黒い大きな種のようなものは赤い実であることがわかる。
 赤と黒の双子実もある。

「実が…………」

「あの左手の木の幹についている蔦は食べられるわ。
 中にたっぷり水を含んでいるの。
 あの薄い紫の花はダメよ。
 その隣の濃い黄色の花は食べられるわ」

 食べられる。

 食べ物がある。

「!」
 ぽん、と肩を叩かれた。
「森はね、狩場にもなるの」

 青い瞳が。
 吸い込まれるくらい近くにあった。

「土地に所有者はいるかもしれないわ。
 その壁がなくなれば、ここも狩場になるの」

 壁を取り払えば。

 城壁の門を開け放ちすべての民に開放すれば、たちまち人々は詰めかけ狩りを始めるだろう。
 喜んで果実をもぎ、木の実を拾い、花を摘むだろう。

「でも……この庭は…………」
「あなた、王様でしょ?
 この庭は王様の庭じゃないの?」
「でも、この庭は……手を、出してはいけないの」
 少女がくすりと笑った。

「違うわ。
 そう言ったんじゃないのよ。

 そのままにしておいてほしいって言うのはね。
 あるがままの森でいてほしい。
 生み育む土地で、餌場となり狩場となり。
 死した後の墓場となる安息の地であってほしい───そう言ったのよ」

「……あんそくの、ち?」

 いいのよ、と少女が許しの言葉をくれる。
「森はときに、狩られるものだもの」