イジメられっ子で泣き虫で、人見知りの激しい僕。
厳つい顔が口を開くことはめったにない父。
武骨で大きな手が僕を褒めてくれた記憶はない。
くるくると良く動くおしゃべり好きな母に言わせれば、余計な部分がないところが気に入ったらしい。
たまに物足りないけどね、と母がぼやいたのを僕は忘れたことがない。
僕は毎日、いや水曜日と日曜日以外は、泣きながら学校から家まで全力疾走する。
家の玄関にたどり着いた時のあの感動。
よだれを垂れ流しながら歓喜に震えたものだ。
水曜日は習い事でイジメっ子のリーダーがいない。
腰巾着たちは遠くから罵り声を投げてくるたばかりで、聞かないふりをして足早に下校することができる。
日曜日は家にいれば誰にも会わずに済む。
愛犬ポテリと庭でダンゴ虫を探したり、母と一緒にお菓子を作ったり、こっそり父の靴を履いたりして過ごした。
そして月曜日の明日。
僕は玄関から出るのに、腹の底から勇気を振り絞らなければ進めなかった。
学校はそれほど嫌いではない。
だが、我慢してまで行かなければならない理由がわからなかった。
考えて、考えて。
頭が痛くなるほど考えてみたが、謎は謎のまま、僕の頭に染みを造っただけだった。
イジメられることに疲れ、学校が謎の存在としか思えなくなった僕。
ランドセルが金曜日の時間割りのまま動かなくなったのは、名札に六年生と書かれてからすぐだった。
「ハルちゃんは人が良すぎるのよ」
と、母談。
学校に行かなくなったが、ご飯は食べるし返事はするからと大丈夫よと言う母。
そうそうに休学届を出してくれた。
「ケンカしないようにしないようにって、みんなに気を使って。
みんながそれに慣れちゃって、ハルちゃんは何をしても許してくれるからって甘えて……。
甘やかしちゃったハルちゃんも、ちょっとは反省しなきゃ」
母はキャベツで種を包みながら鼻歌を歌い出した。
「…………」
父は相変わらず口を開かず。
悪いことをしたわけでもないのに僕は、肩を小さくしてテレビをながめていた。
テレビの中の人たちは、マシンガンのようにしゃべる。
テレビの中の人たちは、爆竹花火のように笑う。
何にかき立てられるのだろう。
何が楽しいのだろう。
じっと見つめても、テレビの中に答はなさそうだ。
「ハル」
一瞬、低い音の主がわからなかった。
「は、はい、お父さん」
振り向くと父は、テレビに視線を向けたまま動かない。
テレビに話しかけたのではと思うほどだった。
「学校は、どうだ?」
「え? あ……」
僕が学校に行かなくなったことを父が知らないわけはない。
母は休学届を出す際、父にも確認したのだから。
「学校は、楽しいか?」
「う……うん」
学校自体は楽しいよ、お父さん。
「友だちと仲良くできてるか?」
「……うん」
ケンカはしてないよ、お父さん。
イジメられてるだけで。
「勉強は追いついているか?」
「……うん」
いつもテストの成績は真ん中のちょっと上で、イジメっ子のリーダーは真ん中のちょっと下で、生意気だって言われたよ、お父さん。
涙が出そうになった。
ここにイジメっ子はいないのに。
叱られているわけでもないのに。
自分が一番、悪い子に思えた。
「ハル」
「……はい」
「ドーナツ、食べるか?」
「………………」
父の視線はテレビに向けられたままで、けっして僕を見ようとしない。
珍しく言葉を往復させた口はもう動かない。
もう一度同じことを言ってもらえば返事ができたかもしれないのに。
父は微動だにしない。
硬直したままの僕に構わず父は立ち上がり、部屋へ下がってしまった。
怒らせたのだろうかと僕は、不安に縮こまっていた。
戻って来た父は財布を手に、僕を手招きした。
僕は慌てて駆け寄り、父に倣って靴を履いて玄関扉をくぐった。
「出てくる」
父の声に応える母の足音は、追ってきてはくれなかった。
夜空は等しく頭上にある。
夜空は遠く無情に見下ろしてくる。
大きな背中を追いかける僕は緊張に喉が乾いたが、パパジュース、なんて無邪気に言える心境になかった。
無言の父は大きな壁のようで恐ろしかった。
コンビニに入ると父は迷わずパンコーナーに立ちふさがり、品定めを始める。
大きな手は小さなドーナツの箱を選んだ。
「ヨンッキューハッチェンになりゃーす」
箱を開けると、僕でも二口で食べ終わりそうなドーナツがいくつも並んでいた。
星の夜空。
公園で父と二人。
これといった会話もなく、黙々とドーナツを食む。
「……人間は、ドーナツだ」
おもむろに口を開いたのは父だった。
僕はドーナツを口に含んだまま首を傾げた。
「ドーナツには穴が空いている。
人間にも穴が空いている」
太い指は器用に包みを空けてドーナツを取り出す。
目の前に掲げた穴の向こうを見つめる円らな瞳。
いつも遠くを差す視線は今、何を見ているのか。
「ドーナツは、自分に穴が空いていることを知っている。
人間は、自分に穴が空いていることを感じている」
僕はおもわず手を胸にあてた。
「ドーナツは自分に穴が空いていることを知っているから、食べられるまでじっとしている。
人間は自分に穴が空いていることを感じているから、不安に衝動的になる。
穴が空いていることを理解できないから、いろんなものを取り込もうとしている。
取り込むべきものがどれなのかわからないから、ためらったり、強引になる……」
僕は正直、父が何を言っているのかわからなかった。
付けっ放しのテレビから聞こえる音声を聞いている気分だった。
でも……。
大粒の雨が地面を叩くような言葉の投げあい。
狂った爆竹花火のような笑い声。
……そんなものとは違う父のライブ。
生身の声は低く静かなのに、鼓動ほどの高低差を鼓膜に感じる。
「だから人間は、いつも苦しんでいる。
毎日苦しみながら、いつか……」
父の言葉が途切れた。
僕は父を仰ぎ見る。
「……人間は、いつか中身の詰まったアンパンになりたいと思いながら生きている」
父の頭上の向こうに夜空があった。
彼方の光が今この時のためにやってきて、父を夜闇に浮かび上がらせる。
父は光を受け、僕の目に優しく写った。
パクリ、とドーナツが父の口の中に消える。
僕は三つ目のドーナツの穴を感心しながら眺めた。
「人間って、大変なんだね」
僕は父を見ずに尋ねた。
「てっちゃんも僕も、いつか、アンパンになれるかな?」
「アンパンなんかにならなくて良い」
僕は目を丸くした。
「完璧なアンパンよりも、穴の空いたドーナツのほうが人間らしい」
僕は少し、考えた。
「……そうかな?」
うん、と―――父は笑って頷いた。
「ドーナツの穴にはいろんなものを取り込める。
うれしいことも、悲しいことも。
たくさん、たくさん詰め込める」
僕はドーナツになったイジメっ子てっちゃんに、イジメられるドーナツの自分を想像した。
笑えた。
同じように、アンパンになった姿を想像してみたが、あまり面白くなかった。
「ドーナツ、おいしいね」
うん、と父は頷いた。
帰ったら歯を磨いて。
ランドセルの中身を月曜日の時間割りに変えようと。
三つ目のドーナツにかぶりつきながら、僕は思った。
厳つい顔が口を開くことはめったにない父。
武骨で大きな手が僕を褒めてくれた記憶はない。
くるくると良く動くおしゃべり好きな母に言わせれば、余計な部分がないところが気に入ったらしい。
たまに物足りないけどね、と母がぼやいたのを僕は忘れたことがない。
僕は毎日、いや水曜日と日曜日以外は、泣きながら学校から家まで全力疾走する。
家の玄関にたどり着いた時のあの感動。
よだれを垂れ流しながら歓喜に震えたものだ。
水曜日は習い事でイジメっ子のリーダーがいない。
腰巾着たちは遠くから罵り声を投げてくるたばかりで、聞かないふりをして足早に下校することができる。
日曜日は家にいれば誰にも会わずに済む。
愛犬ポテリと庭でダンゴ虫を探したり、母と一緒にお菓子を作ったり、こっそり父の靴を履いたりして過ごした。
そして月曜日の明日。
僕は玄関から出るのに、腹の底から勇気を振り絞らなければ進めなかった。
学校はそれほど嫌いではない。
だが、我慢してまで行かなければならない理由がわからなかった。
考えて、考えて。
頭が痛くなるほど考えてみたが、謎は謎のまま、僕の頭に染みを造っただけだった。
イジメられることに疲れ、学校が謎の存在としか思えなくなった僕。
ランドセルが金曜日の時間割りのまま動かなくなったのは、名札に六年生と書かれてからすぐだった。
「ハルちゃんは人が良すぎるのよ」
と、母談。
学校に行かなくなったが、ご飯は食べるし返事はするからと大丈夫よと言う母。
そうそうに休学届を出してくれた。
「ケンカしないようにしないようにって、みんなに気を使って。
みんながそれに慣れちゃって、ハルちゃんは何をしても許してくれるからって甘えて……。
甘やかしちゃったハルちゃんも、ちょっとは反省しなきゃ」
母はキャベツで種を包みながら鼻歌を歌い出した。
「…………」
父は相変わらず口を開かず。
悪いことをしたわけでもないのに僕は、肩を小さくしてテレビをながめていた。
テレビの中の人たちは、マシンガンのようにしゃべる。
テレビの中の人たちは、爆竹花火のように笑う。
何にかき立てられるのだろう。
何が楽しいのだろう。
じっと見つめても、テレビの中に答はなさそうだ。
「ハル」
一瞬、低い音の主がわからなかった。
「は、はい、お父さん」
振り向くと父は、テレビに視線を向けたまま動かない。
テレビに話しかけたのではと思うほどだった。
「学校は、どうだ?」
「え? あ……」
僕が学校に行かなくなったことを父が知らないわけはない。
母は休学届を出す際、父にも確認したのだから。
「学校は、楽しいか?」
「う……うん」
学校自体は楽しいよ、お父さん。
「友だちと仲良くできてるか?」
「……うん」
ケンカはしてないよ、お父さん。
イジメられてるだけで。
「勉強は追いついているか?」
「……うん」
いつもテストの成績は真ん中のちょっと上で、イジメっ子のリーダーは真ん中のちょっと下で、生意気だって言われたよ、お父さん。
涙が出そうになった。
ここにイジメっ子はいないのに。
叱られているわけでもないのに。
自分が一番、悪い子に思えた。
「ハル」
「……はい」
「ドーナツ、食べるか?」
「………………」
父の視線はテレビに向けられたままで、けっして僕を見ようとしない。
珍しく言葉を往復させた口はもう動かない。
もう一度同じことを言ってもらえば返事ができたかもしれないのに。
父は微動だにしない。
硬直したままの僕に構わず父は立ち上がり、部屋へ下がってしまった。
怒らせたのだろうかと僕は、不安に縮こまっていた。
戻って来た父は財布を手に、僕を手招きした。
僕は慌てて駆け寄り、父に倣って靴を履いて玄関扉をくぐった。
「出てくる」
父の声に応える母の足音は、追ってきてはくれなかった。
夜空は等しく頭上にある。
夜空は遠く無情に見下ろしてくる。
大きな背中を追いかける僕は緊張に喉が乾いたが、パパジュース、なんて無邪気に言える心境になかった。
無言の父は大きな壁のようで恐ろしかった。
コンビニに入ると父は迷わずパンコーナーに立ちふさがり、品定めを始める。
大きな手は小さなドーナツの箱を選んだ。
「ヨンッキューハッチェンになりゃーす」
箱を開けると、僕でも二口で食べ終わりそうなドーナツがいくつも並んでいた。
星の夜空。
公園で父と二人。
これといった会話もなく、黙々とドーナツを食む。
「……人間は、ドーナツだ」
おもむろに口を開いたのは父だった。
僕はドーナツを口に含んだまま首を傾げた。
「ドーナツには穴が空いている。
人間にも穴が空いている」
太い指は器用に包みを空けてドーナツを取り出す。
目の前に掲げた穴の向こうを見つめる円らな瞳。
いつも遠くを差す視線は今、何を見ているのか。
「ドーナツは、自分に穴が空いていることを知っている。
人間は、自分に穴が空いていることを感じている」
僕はおもわず手を胸にあてた。
「ドーナツは自分に穴が空いていることを知っているから、食べられるまでじっとしている。
人間は自分に穴が空いていることを感じているから、不安に衝動的になる。
穴が空いていることを理解できないから、いろんなものを取り込もうとしている。
取り込むべきものがどれなのかわからないから、ためらったり、強引になる……」
僕は正直、父が何を言っているのかわからなかった。
付けっ放しのテレビから聞こえる音声を聞いている気分だった。
でも……。
大粒の雨が地面を叩くような言葉の投げあい。
狂った爆竹花火のような笑い声。
……そんなものとは違う父のライブ。
生身の声は低く静かなのに、鼓動ほどの高低差を鼓膜に感じる。
「だから人間は、いつも苦しんでいる。
毎日苦しみながら、いつか……」
父の言葉が途切れた。
僕は父を仰ぎ見る。
「……人間は、いつか中身の詰まったアンパンになりたいと思いながら生きている」
父の頭上の向こうに夜空があった。
彼方の光が今この時のためにやってきて、父を夜闇に浮かび上がらせる。
父は光を受け、僕の目に優しく写った。
パクリ、とドーナツが父の口の中に消える。
僕は三つ目のドーナツの穴を感心しながら眺めた。
「人間って、大変なんだね」
僕は父を見ずに尋ねた。
「てっちゃんも僕も、いつか、アンパンになれるかな?」
「アンパンなんかにならなくて良い」
僕は目を丸くした。
「完璧なアンパンよりも、穴の空いたドーナツのほうが人間らしい」
僕は少し、考えた。
「……そうかな?」
うん、と―――父は笑って頷いた。
「ドーナツの穴にはいろんなものを取り込める。
うれしいことも、悲しいことも。
たくさん、たくさん詰め込める」
僕はドーナツになったイジメっ子てっちゃんに、イジメられるドーナツの自分を想像した。
笑えた。
同じように、アンパンになった姿を想像してみたが、あまり面白くなかった。
「ドーナツ、おいしいね」
うん、と父は頷いた。
帰ったら歯を磨いて。
ランドセルの中身を月曜日の時間割りに変えようと。
三つ目のドーナツにかぶりつきながら、僕は思った。