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 馬に乗っていると思い出す。
 駄馬を駿馬のように走らせる男がいた。
 その見事な腕前は、師である彼すら驚いたほどだ。



 見習い時代から勘の利く子どもで、上達も早かった。
 無口で、あまり自分のことを語らない子供だったが、人の話に耳を傾け、言葉の一つ一つを吟味していた。
 怒られれば謝り、謝られるとすぐに許した。
 思えば、兄弟弟子たちとの衝突が一番少なく、手もかからなかったように思う。

 昔から良くあることだが、その子どもも親を早くに亡くしていた。
 面倒を見れないと伯父夫婦に言われて自分から彼の元にきた。

 剣一本で食べれるようになりたい、と子どもは言った。
 腹いっぱい食べて、また稼いで、稼いだ金でまた腹いっぱい食べたいといった子どもは、見るも無残に痩せていた。

 教えたことができたら、食事を多めにしてやった。
 教えたことができなかったら、食事を減らした。

 子どもは必死に食らい着いてきた。
 導師の中でも一の厳しさを誇るといわれた彼の稽古に、子供は泣き言一つ言わずついてきた。

 十数年後、子どもは見事に中位試験に合格した。
 彼の知らせを、子ども……いや、青年は静かに耳を傾けて聞いていた。

 その後の修行にも手を抜くことなく、確実に力を付けていった。
 だから彼は、懐かしい昔の生徒からの願いを青年に託した。

 直師。

 階位に関係なく、特殊な能力・技術者だけが就くことのできる、大魔導師直属の地位。
 その未来の長への道を、託した。



 話を聞くとき青年は、いつものように表情もなく、静かに佇んでいた。
 師匠である彼の言葉の一つたりとも逃がしてはならないという、強迫観念にも似た懸命さで耳を傾けていた。

 青年は直師の道を選んだ。
 その場で。
 何の躊躇いもなく。

 なぜならば。

 昔の生徒が、暴いたからだ。
 青年の難聴を。



 師である彼はそれまでまったく気づかなかった。
 無口なのも、人が話すとき、その人の口元をじっと見つめるのも癖なのだと思っていた。

 そうではなかった。
 聞き取りにくいから、口の動きも合わせてからでないと言葉がわからなかった。じっとして聞いていないと、聞き逃すことが多かった。

 なぜ、と彼は問うた。
 怖かった、と青年は言った。
『もし師匠に知られたら、破門されるのではと思っていました』
 だから十年以上、師匠である彼にすら言えずにいたのだという。

 そして知られてしまったからには、破門されるのだろう、と……青年は怯えた顔をした。



 彼は唇を噛んで、昔の生徒に頭を下げた。
『こいつを、頼む』
 昔の生徒は驚いて彼に頭を上げてくれるようにと言った。

 落ち込む師弟に向かって、昔の生徒は言った。
『導師。善いお弟子をお持ちですね』



 明日からしばらく……十年は会えないだろうと、青年は言った。
 久しぶりだからと二人、馬で丘の頂上まで走った。

 うっすらと汗をかく。
 丘の上の風が涼しい。
 風が渡る音と、遠くから運ばれてくる鳥の声しか聞こえない。

『おまえには、どんなふうに聞こえる?』
『はい?』
 彼はもう一度、はっきりと言った。
『風はおまえの耳に、どんなふうに聞こえる?』
 青年はしばらく考えた。

『……水の、中に、いるようです』
『水?』
『叔母に、一度、連れて行かれた……川の底で聞いた、水が渦を巻くような音に、似ています』
『水の底……?』
 青年はつぶやいた。

『冷たかった……』

 青年の顔に、珍しく表情があった。
 頬が歪み、太めの眉がねじれた。口を閉じると硬く結ばれた唇は青いほどだった。

『……レイ』
『はい、師よ』
『よく励めよ』
『はい』
『あいつは、あんな顔をしているが、厳しいぞ』
『はい』
『レイ』
『はい、師よ』
『もし……もしも、どうしても、

 辛かったら、帰って来い』

 青年は固く結んだ唇を噛んで、彼から顔をそらして前を向き、ぎこちなくうなずいた。



 それから十年もせず、青年は見習い期間を終え、準直師となった。
 報告にきた青年の顔には相変わらず表情らしいものはなかったが、確実に自信と誇りがあり、目も生き生きとしていた。
 さらに短い期間で青年は直師となり、いつしか長となった。

 長の話どころか、直師となった報告も受けなかった。
 聞かないことが暗黙の了解だった。
 直師は自らのことを明かさないものだったから。

 だが青年は、何か功績があると必ず彼の元にやってきた。何気ない世間話をして、丘まで乗馬をした。
 それが報告だった。

 だから彼も、結婚をして子どもに恵まれたことも、押し付けられて大師の称号をいただいたことも言わなかった。
 さすがに直師とあって青年は知っていた。
 遠い国の習慣で、子供用の魔よけだといって、青い宝石のついた耳飾りをくれた。

 いつしか青年だけには大師と呼ぶことを許した。



 多くの言葉はなく。
 顔は風のない水面のようで。
 ただ静かに馬を走らせ、永遠に広がるような森の上を渡る風の音に耳を澄ませる。

 過去を忘れぬように。
 自分を戒めるため。



 魔導士とは不思議なもので、長寿のものもいれば、人間の寿命といわれる百年、あるいはもっと短い時で終えるものもいる。
 青年は長寿だったが、彼はその死を聞く側に回った。

 青年の遺言だといって、彼の後継者が、青年を持ち帰った。
『自分の残りは、すべて師匠の下へ帰らせてほしい、と』

 彼は言葉もなく青年の名残を手にとり、彼の帰郷を喜んだ。
『よく帰ったな』





 ひょおぅ

 風の音が耳を切っていった。

 思い出から目を覚ました彼は、目の前に広がる森を見渡し、風が渡るのを聞いた。
 冷たい川の底の音を。

「レイ、聞こえるか?」

 青年の名残を掲げると、それは陽に照らされてきらりと光った。





 直師の中に、『静のレイスレイ』と呼ばれた魔導士がいる。
 寡黙な彼は、同僚や上司にさえ笑顔を見せたことがなかったという。
 だが彼は礼節を知り、実力を鼻にかけない謙虚さがあった。

 早い出世と実力を誰も彼を羨ましがったが、疎んだり恨みはしなかった。
 もし恨んだものがいても、彼はどんな言葉も受け止め、どんな言葉も聞き逃さなかった。

 静かに、向けられる言葉を聞いていた。

 罵詈雑言を発した相手は、彼のあまりの静かさにやがて気を削がれ、口を閉じたという。





 乗馬を終えて戻ると、自室の前に弟子がいた。
「どうした、イサ?」
「師匠……」
 弟子は情けない顔をした。
「なんだ?」
「あの……」
「なんだ? 早く言え」
「お父さんって、お呼びするべきでしょうか?」

 そういえば、娘にこの弟子を紹介したんだと、彼は思い出した。
「そうだな。
 上位試験に受かったら許そう」
 弟子が泣きそうな顔をしたので、彼は盛大に笑ってやった。

 胸に下げた小袋の中で、青年の名残が驚いたような気がした。