1--*
馬に乗っていると思い出す。
駄馬を駿馬のように走らせる男がいた。
その見事な腕前は、師である彼すら驚いたほどだ。
見習い時代から勘の利く子どもで、上達も早かった。
無口で、あまり自分のことを語らない子供だったが、人の話に耳を傾け、言葉の一つ一つを吟味していた。
怒られれば謝り、謝られるとすぐに許した。
思えば、兄弟弟子たちとの衝突が一番少なく、手もかからなかったように思う。
昔から良くあることだが、その子どもも親を早くに亡くしていた。
面倒を見れないと伯父夫婦に言われて自分から彼の元にきた。
剣一本で食べれるようになりたい、と子どもは言った。
腹いっぱい食べて、また稼いで、稼いだ金でまた腹いっぱい食べたいといった子どもは、見るも無残に痩せていた。
教えたことができたら、食事を多めにしてやった。
教えたことができなかったら、食事を減らした。
子どもは必死に食らい着いてきた。
導師の中でも一の厳しさを誇るといわれた彼の稽古に、子供は泣き言一つ言わずついてきた。
十数年後、子どもは見事に中位試験に合格した。
彼の知らせを、子ども……いや、青年は静かに耳を傾けて聞いていた。
その後の修行にも手を抜くことなく、確実に力を付けていった。
だから彼は、懐かしい昔の生徒からの願いを青年に託した。
直師。
階位に関係なく、特殊な能力・技術者だけが就くことのできる、大魔導師直属の地位。
その未来の長への道を、託した。
話を聞くとき青年は、いつものように表情もなく、静かに佇んでいた。
師匠である彼の言葉の一つたりとも逃がしてはならないという、強迫観念にも似た懸命さで耳を傾けていた。
青年は直師の道を選んだ。
その場で。
何の躊躇いもなく。
なぜならば。
昔の生徒が、暴いたからだ。
青年の難聴を。
師である彼はそれまでまったく気づかなかった。
無口なのも、人が話すとき、その人の口元をじっと見つめるのも癖なのだと思っていた。
そうではなかった。
聞き取りにくいから、口の動きも合わせてからでないと言葉がわからなかった。じっとして聞いていないと、聞き逃すことが多かった。
なぜ、と彼は問うた。
怖かった、と青年は言った。
『もし師匠に知られたら、破門されるのではと思っていました』
だから十年以上、師匠である彼にすら言えずにいたのだという。
そして知られてしまったからには、破門されるのだろう、と……青年は怯えた顔をした。
彼は唇を噛んで、昔の生徒に頭を下げた。
『こいつを、頼む』
昔の生徒は驚いて彼に頭を上げてくれるようにと言った。
落ち込む師弟に向かって、昔の生徒は言った。
『導師。善いお弟子をお持ちですね』
明日からしばらく……十年は会えないだろうと、青年は言った。
久しぶりだからと二人、馬で丘の頂上まで走った。
うっすらと汗をかく。
丘の上の風が涼しい。
風が渡る音と、遠くから運ばれてくる鳥の声しか聞こえない。
『おまえには、どんなふうに聞こえる?』
『はい?』
彼はもう一度、はっきりと言った。
『風はおまえの耳に、どんなふうに聞こえる?』
青年はしばらく考えた。
『……水の、中に、いるようです』
『水?』
『叔母に、一度、連れて行かれた……川の底で聞いた、水が渦を巻くような音に、似ています』
『水の底……?』
青年はつぶやいた。
『冷たかった……』
青年の顔に、珍しく表情があった。
頬が歪み、太めの眉がねじれた。口を閉じると硬く結ばれた唇は青いほどだった。
『……レイ』
『はい、師よ』
『よく励めよ』
『はい』
『あいつは、あんな顔をしているが、厳しいぞ』
『はい』
『レイ』
『はい、師よ』
『もし……もしも、どうしても、
辛かったら、帰って来い』
青年は固く結んだ唇を噛んで、彼から顔をそらして前を向き、ぎこちなくうなずいた。
それから十年もせず、青年は見習い期間を終え、準直師となった。
報告にきた青年の顔には相変わらず表情らしいものはなかったが、確実に自信と誇りがあり、目も生き生きとしていた。
さらに短い期間で青年は直師となり、いつしか長となった。
長の話どころか、直師となった報告も受けなかった。
聞かないことが暗黙の了解だった。
直師は自らのことを明かさないものだったから。
だが青年は、何か功績があると必ず彼の元にやってきた。何気ない世間話をして、丘まで乗馬をした。
それが報告だった。
だから彼も、結婚をして子どもに恵まれたことも、押し付けられて大師の称号をいただいたことも言わなかった。
さすがに直師とあって青年は知っていた。
遠い国の習慣で、子供用の魔よけだといって、青い宝石のついた耳飾りをくれた。
いつしか青年だけには大師と呼ぶことを許した。
多くの言葉はなく。
顔は風のない水面のようで。
ただ静かに馬を走らせ、永遠に広がるような森の上を渡る風の音に耳を澄ませる。
過去を忘れぬように。
自分を戒めるため。
魔導士とは不思議なもので、長寿のものもいれば、人間の寿命といわれる百年、あるいはもっと短い時で終えるものもいる。
青年は長寿だったが、彼はその死を聞く側に回った。
青年の遺言だといって、彼の後継者が、青年を持ち帰った。
『自分の残りは、すべて師匠の下へ帰らせてほしい、と』
彼は言葉もなく青年の名残を手にとり、彼の帰郷を喜んだ。
『よく帰ったな』
ひょおぅ
風の音が耳を切っていった。
思い出から目を覚ました彼は、目の前に広がる森を見渡し、風が渡るのを聞いた。
冷たい川の底の音を。
「レイ、聞こえるか?」
青年の名残を掲げると、それは陽に照らされてきらりと光った。
直師の中に、『静のレイスレイ』と呼ばれた魔導士がいる。
寡黙な彼は、同僚や上司にさえ笑顔を見せたことがなかったという。
だが彼は礼節を知り、実力を鼻にかけない謙虚さがあった。
早い出世と実力を誰も彼を羨ましがったが、疎んだり恨みはしなかった。
もし恨んだものがいても、彼はどんな言葉も受け止め、どんな言葉も聞き逃さなかった。
静かに、向けられる言葉を聞いていた。
罵詈雑言を発した相手は、彼のあまりの静かさにやがて気を削がれ、口を閉じたという。
乗馬を終えて戻ると、自室の前に弟子がいた。
「どうした、イサ?」
「師匠……」
弟子は情けない顔をした。
「なんだ?」
「あの……」
「なんだ? 早く言え」
「お父さんって、お呼びするべきでしょうか?」
そういえば、娘にこの弟子を紹介したんだと、彼は思い出した。
「そうだな。
上位試験に受かったら許そう」
弟子が泣きそうな顔をしたので、彼は盛大に笑ってやった。
胸に下げた小袋の中で、青年の名残が驚いたような気がした。
馬に乗っていると思い出す。
駄馬を駿馬のように走らせる男がいた。
その見事な腕前は、師である彼すら驚いたほどだ。
見習い時代から勘の利く子どもで、上達も早かった。
無口で、あまり自分のことを語らない子供だったが、人の話に耳を傾け、言葉の一つ一つを吟味していた。
怒られれば謝り、謝られるとすぐに許した。
思えば、兄弟弟子たちとの衝突が一番少なく、手もかからなかったように思う。
昔から良くあることだが、その子どもも親を早くに亡くしていた。
面倒を見れないと伯父夫婦に言われて自分から彼の元にきた。
剣一本で食べれるようになりたい、と子どもは言った。
腹いっぱい食べて、また稼いで、稼いだ金でまた腹いっぱい食べたいといった子どもは、見るも無残に痩せていた。
教えたことができたら、食事を多めにしてやった。
教えたことができなかったら、食事を減らした。
子どもは必死に食らい着いてきた。
導師の中でも一の厳しさを誇るといわれた彼の稽古に、子供は泣き言一つ言わずついてきた。
十数年後、子どもは見事に中位試験に合格した。
彼の知らせを、子ども……いや、青年は静かに耳を傾けて聞いていた。
その後の修行にも手を抜くことなく、確実に力を付けていった。
だから彼は、懐かしい昔の生徒からの願いを青年に託した。
直師。
階位に関係なく、特殊な能力・技術者だけが就くことのできる、大魔導師直属の地位。
その未来の長への道を、託した。
話を聞くとき青年は、いつものように表情もなく、静かに佇んでいた。
師匠である彼の言葉の一つたりとも逃がしてはならないという、強迫観念にも似た懸命さで耳を傾けていた。
青年は直師の道を選んだ。
その場で。
何の躊躇いもなく。
なぜならば。
昔の生徒が、暴いたからだ。
青年の難聴を。
師である彼はそれまでまったく気づかなかった。
無口なのも、人が話すとき、その人の口元をじっと見つめるのも癖なのだと思っていた。
そうではなかった。
聞き取りにくいから、口の動きも合わせてからでないと言葉がわからなかった。じっとして聞いていないと、聞き逃すことが多かった。
なぜ、と彼は問うた。
怖かった、と青年は言った。
『もし師匠に知られたら、破門されるのではと思っていました』
だから十年以上、師匠である彼にすら言えずにいたのだという。
そして知られてしまったからには、破門されるのだろう、と……青年は怯えた顔をした。
彼は唇を噛んで、昔の生徒に頭を下げた。
『こいつを、頼む』
昔の生徒は驚いて彼に頭を上げてくれるようにと言った。
落ち込む師弟に向かって、昔の生徒は言った。
『導師。善いお弟子をお持ちですね』
明日からしばらく……十年は会えないだろうと、青年は言った。
久しぶりだからと二人、馬で丘の頂上まで走った。
うっすらと汗をかく。
丘の上の風が涼しい。
風が渡る音と、遠くから運ばれてくる鳥の声しか聞こえない。
『おまえには、どんなふうに聞こえる?』
『はい?』
彼はもう一度、はっきりと言った。
『風はおまえの耳に、どんなふうに聞こえる?』
青年はしばらく考えた。
『……水の、中に、いるようです』
『水?』
『叔母に、一度、連れて行かれた……川の底で聞いた、水が渦を巻くような音に、似ています』
『水の底……?』
青年はつぶやいた。
『冷たかった……』
青年の顔に、珍しく表情があった。
頬が歪み、太めの眉がねじれた。口を閉じると硬く結ばれた唇は青いほどだった。
『……レイ』
『はい、師よ』
『よく励めよ』
『はい』
『あいつは、あんな顔をしているが、厳しいぞ』
『はい』
『レイ』
『はい、師よ』
『もし……もしも、どうしても、
辛かったら、帰って来い』
青年は固く結んだ唇を噛んで、彼から顔をそらして前を向き、ぎこちなくうなずいた。
それから十年もせず、青年は見習い期間を終え、準直師となった。
報告にきた青年の顔には相変わらず表情らしいものはなかったが、確実に自信と誇りがあり、目も生き生きとしていた。
さらに短い期間で青年は直師となり、いつしか長となった。
長の話どころか、直師となった報告も受けなかった。
聞かないことが暗黙の了解だった。
直師は自らのことを明かさないものだったから。
だが青年は、何か功績があると必ず彼の元にやってきた。何気ない世間話をして、丘まで乗馬をした。
それが報告だった。
だから彼も、結婚をして子どもに恵まれたことも、押し付けられて大師の称号をいただいたことも言わなかった。
さすがに直師とあって青年は知っていた。
遠い国の習慣で、子供用の魔よけだといって、青い宝石のついた耳飾りをくれた。
いつしか青年だけには大師と呼ぶことを許した。
多くの言葉はなく。
顔は風のない水面のようで。
ただ静かに馬を走らせ、永遠に広がるような森の上を渡る風の音に耳を澄ませる。
過去を忘れぬように。
自分を戒めるため。
魔導士とは不思議なもので、長寿のものもいれば、人間の寿命といわれる百年、あるいはもっと短い時で終えるものもいる。
青年は長寿だったが、彼はその死を聞く側に回った。
青年の遺言だといって、彼の後継者が、青年を持ち帰った。
『自分の残りは、すべて師匠の下へ帰らせてほしい、と』
彼は言葉もなく青年の名残を手にとり、彼の帰郷を喜んだ。
『よく帰ったな』
ひょおぅ
風の音が耳を切っていった。
思い出から目を覚ました彼は、目の前に広がる森を見渡し、風が渡るのを聞いた。
冷たい川の底の音を。
「レイ、聞こえるか?」
青年の名残を掲げると、それは陽に照らされてきらりと光った。
直師の中に、『静のレイスレイ』と呼ばれた魔導士がいる。
寡黙な彼は、同僚や上司にさえ笑顔を見せたことがなかったという。
だが彼は礼節を知り、実力を鼻にかけない謙虚さがあった。
早い出世と実力を誰も彼を羨ましがったが、疎んだり恨みはしなかった。
もし恨んだものがいても、彼はどんな言葉も受け止め、どんな言葉も聞き逃さなかった。
静かに、向けられる言葉を聞いていた。
罵詈雑言を発した相手は、彼のあまりの静かさにやがて気を削がれ、口を閉じたという。
乗馬を終えて戻ると、自室の前に弟子がいた。
「どうした、イサ?」
「師匠……」
弟子は情けない顔をした。
「なんだ?」
「あの……」
「なんだ? 早く言え」
「お父さんって、お呼びするべきでしょうか?」
そういえば、娘にこの弟子を紹介したんだと、彼は思い出した。
「そうだな。
上位試験に受かったら許そう」
弟子が泣きそうな顔をしたので、彼は盛大に笑ってやった。
胸に下げた小袋の中で、青年の名残が驚いたような気がした。