「そこまでか?」
 男の声がした。

 クラウスは素早く少女の前に出た。
 剣の柄に手をかける。
「誰だ?」
 扉に向かって誰何する。
 蝋燭の明かりの届かない、薄明かりの向こうに黒い人影があった。

「ウィリアムという少女を探している。
 その後ろのか?」
 少女はクラウスの背に手を乗せた。
 アインス国軍だろうか。
 もうここまで来てしまったのだろうか。

「早く答えろ。時間がない」
「何?」
「アインス国が城壁を囲みだした。
 もう少しでここを見つける」

「……! 逃げましょう、姫」
「ひめ?」
 クラウスの言葉に反応し、男は歩み寄った。
 蝋燭の明かりのもとへ入り込んだ男の姿に、二人して一瞬、息を飲む。

 金色の髪に縁取られた造作は美しく整い、表情がないだけ神像にも見える。
 目も金色に光り、猫のようだ。
 顔を覗き込まれたとき、少女の鼻腔を青い葉の香りがくすぐった。

「本当だ。女だ。
 それでウィリアム? 本当の名前は?」
「………………マ」
「おまえは誰だ?」
 少女が言い終える前にクラウスが口を開いた。
 男には最後まで聞こえただろうか。

「シルヴィアを知っているか?」
「シルヴィア?」
「彼女に頼まれた。
 ウィリアムという少女を助けてほしい、と」
「シルヴィアが!?」
 少女はクラウスを押しのけ前に出た。
 男の胸倉を掴む。

「無事か? シルヴィアは無事なのか?」
「……ぶ、無事、だ。
 いまは、俺が死にそう、だから、手を、放せ」

 言われて少女は、男の胸倉を力いっぱい掴んでいたことに気づいた。
 慌てて手を放すと男は小さく咳き込む。
「ごめん」
「ん……」

 少女は肩に手を置かれ、後ろに引っ張られる。
 クラウスだ。
「おまえは誰だ?」
「シルヴィアの知人だ。
 おまえを助けてほしいといわれた。
 逃げるのか? それとも戦うのか?」

「戦えるはずがない。
 人数を考えろ」
「外に仲間がいるようだが、足りないのか?」
「二十名ほどだ。
 逃げるだけで精一杯だろう」
「それなら逃げよう。
 一人だけならそう難しくはない」

 男の言葉に、少女は引っ掛かりを感じた。
「ひとり……? ほかに誰かいるのか?」
「誰って……。
 城下や神殿に残っているやつがいるだろう?
 そこまで面倒見ていたら、大移動になる」
「残っているものがいるのか? 布令どおり出て行っていないのか!?」

 少女が前に出ると男は一歩下がった。
 また胸倉を掴まれると思ったのだろう。
「布令ってあの、他国に逃げろとかいうやつか?」
「そうだ。
 おまえも見ただろう? 王の命をなぜ無視する?」
「王の命って、俺はこの国のものじゃない」

「だがこの国が今、危険な状態にあることはわかったはずだ。
 わかっていて、ここまで来たのか?」
「まぁ、そうだけど。
 ……話が長引くなら、蝋燭は消さないか?」

 クラウスが気づいて蝋燭の芯を摘まんで消した。
 城下や神殿と違い、この城には少女一人しかいない。
 明かりがあれば居場所を教えているも同然だ。
 しばらくは暗闇に立っていたが、目が月明かりに慣れると男に即され、二人は扉側の壁に寄って絨毯に腰を下ろした。

「布令は王命、か。
 でも、そう簡単に出て行くとは思えないな」
「なぜ? 王の命が聞けないのか?」
「今その王命を聞かなかったからって、誰が罰する? 布令を出した王も、裁きの神官もいない。

 言われたとおり逃げ出したとして、他国に頼る伝があるものはわずかだ。
 寄るべきところもない民は難民として扱われる。
 ───難民がどんなものか知っているか?」
 男の問いに二人は視線を合わせたが、どちらも首を横に振った。
「……いいや、知らない」

「見渡しのいいところに集められ、野外生活だ。
 逃げ出さないようにと常に兵士が見張っているだろう。
 天幕があればいい。
 そこが野原ならいい。
 雨は適度に降る場所ならいい。
 食糧を定期的にもらえればいい。
 毎日が暖かな日であればいい。
 その逆なら、死者は毎日増えるだろう」

「…………」
「…………」
 二人は押し黙った。
 少女はクラウスの顔を見ることもできなかった。
 見ればクラウスは視線を逸らしただろう。
 小さいとはいえ戦の経験がある彼のことだ、想像しなかったはずがない。

「まぁまず、難民は追い出されるな」
「なぜ?」
「籠にいっぱいの木の実を詰め込もうとしても、籠に入りきれない分は置いていくしかない。
 国も同じだ。容量がある。
 領土はあるとしても、急に難民の分の食料を確保することはできないだろう。

 それに、自国民との争いが起きないという可能性もない。
 そうなれば人員もさらに必要になる。
 難民の受け入れを急に頼んでも、すぐにどうこうしてくれ国はないんじゃないか」

 青年のいうことは少女には少し難しかった。
 けれどなんとなく理解できた。
 シュワルド国民は逃げようとしても国から出られないし、家でじっとしているとアインス人の奴隷にされる。

「わた、し、は……」
 胸が苦しくなる。
 片手で自分の手を押さえ、クラウスの肩に額を押し付けた。
「なにも、できないのか?」

 無力な自分を感じた。
 優しかった別邸の人々の笑顔が次々と思い出され、名前を呼ぶ前に消え去ってしまう。
 名も知らぬ人々の声が耳に蘇えり、姿も知らぬ民の悲しみが伝わってくるようだ。

 敗国シュワルド。
 逃げることもできない民。
 いったい、どんなひどい扱いを受けるのだろう。
 彼らは人として生きていけるのだろうか。

「助け、られないのか……?
 わたしは……なに、も、でき……ないの、か?」
 顔が熱い。
 目が酷く痛んだ。
 硬く閉じたはずのまぶたをおしのけ、涙が落ちる。
 嗚咽のたびに喉が痛んだ。

「何がしたい?」
 静かな声が頭上から降った。
「…………助け、たい」

「何を?」
「民を……シュワルドの、人々を」

「命を? 故郷を?」
「…………」

 ゆっくりと頭をもたげる。
 とても重い。

 かすんだ視界の向こうで淡い光に照らされる人がいた。
 蝋燭の明かりを流し込んだような金の髪に、金の瞳の人だ。
 その目に視界を奪われた。
 ほかには何もなかった。

「故郷、を、失って……生きて、いけ、る、だろう、か……?」

「難民であることに絶えられるなら。
 故郷を失う痛みを覚悟できるなら」

「命は……命は、失っては、いけない。
 命は、ひとつしか、ない、から……」
 こくり、と金色の瞳がうなずいた。

「マリーナ」
 その声は耳の奥にジンと響いた。

「逃げるより、従順するより、戦って負けろ」
「…………」

「おまえの血でこの地を固め、敵の足跡をけっして許すな」
「……たたかう…………?」

「この地が穢れたことを教えてやれ。
 祖国が侵されたことを知らしめろ。
 逃げた民の愛国心を沸き立たせろ。
 すでに敗北のみを決めた民を立ち上がらせろ!

 敗北しても、けっして心は侵されない。
 シュワルド国のマリーナという存在が、民の心に先導者として焼き付けられる。
 戦ったという事実がおまえの存在を守るだろう。
 そして民の、心の中の故郷を守る」

 ふっと、視界を何かが覆った。
 クラウスの手だ。

「兵はいない」
「かき集めろ。
 まだ国に残っている」
「領主らが動くと思うか!」
 金の瞳が薄く微笑んだ。

「農民でもいい」
「……なに?」
「猟師でも、針子でもいい。
 主婦でも愛人でも無職でもなんでもいい。
 戦う意志があるのなら、たとえ赤ん坊だろうとかまわない。
 国を愛しているなら、守りたいと思うなら、戦場を駆けさせろ。

 やり直せないのは過去だけだ。
 取り返せないのは昨日だけだ。
 ───明日も祖国で生きたいと思うなら、拳を剣と思え。
 心に意志の鎧を着せろ」

 金色の瞳の手が伸びた。
 その手には何かとてつもなく大きなモノが乗っていた。
 それを手に取れば国のすべてが……いや、民の心が読めるのではないかと思った。
 民の心を救えるのではないか、と。

「マリーナ」
 硬い声音。
 揺るがす音。

 揺られたのは、心。
「いま、祖国を守りぬけ」

 金色の瞳は、とても冷たかった。