はっと気づく。
突然の覚醒に胸が苦しい。
いつのまにか陽は頂点に差し掛かり、長いことうたた寝していたことを教えてくれた。
汗をかいていた。
(水を浴びよう)
一階に降りて井戸の部屋に行く。
人がいたときは自室の浴室まで湯が運ばれたが、今はそんなこともできない。
井戸から水をくみ上げ、風呂桶に注ぎ込む。
「王子様?」
水の音が聞こえたのか、扉の向こうから少女が顔を覗かせた。
「……水浴び?」
「あぁ、汗をかいたんだ」
「それで、水を?」
「そうだ」
「…………」
火の起こし方がわからないため今まで水で体を拭いていることを知り、少女は目を剥いた。
「風邪を引くわ。
沸かしてあげるから、少し待ってて」
風呂桶いっぱいのお湯を沸かすのにはとても時間がかかった。
それだけでなく、釜から風呂桶に運び、湯加減を見るのだ。
風呂に入るだけで大変なことなのだと知った。
「背中を流してあげるわ」
「え? い、いや、それはいい!」
「なに慌ててるの? 背中を流すだけよ」
「あ、ひ、ひとりでできるから、い、いいんだ」
「遠慮しないで。
女同士ですもの。
かまわないでしょ?」
「え?」
素の声が出た。
「わたし毎日、お嬢様のお風呂役だったのよ。
きっと巧くできるわ」
ね、と少女は笑って、呆然とするウィリアムの手を引いていく。
上着のボタンをひとつ外されたとき、慌ててその手を掴んだ。
「待て! どうしてわたしが女なんだ!?」
少女はきょとんとした顔でウィリアムを見上げる。
「どうしてって……。
女の子でしょ、あなた?」
「わ、わたしは、この国の王子だぞ?」
「そう聞いたわ。
でもほら、あなたの手は女の子の手だわ。
大きな服で隠しているけど腰も細いし、何より歩き方が男の人じゃないもの。
すぐにわかるわ」
「どうして……」
「どうかしたの? 他の人に言ってはいけないなら、言わないわ。
言わなければいいだけでしょ?」
「……アインスの間者か?」
「わたしはそんなに器用じゃないの。
髪を洗ってあげるわ。
きれいな色なのに、もったいない」
少女の細い指がウィリアムの髪を梳く。
ウィリアムの髪は香ばしく焼けたパンの皮のような、濃厚な甘さの栗のような色をしている。
王族の中で唯一、明るい髪の色だ。
「わたしは……」
「王子様と呼んだほうがいいのならそうするわ。
でも王子様だって、侍女に髪を洗わせるでしょう?」
少女はてきぱきとウィリアムの服を脱がせにかかる。
乳母と慣れた侍女以外に肌を見せるのは初めてだ。
緊張した。
それを知ってか少女の手つきは、ウィリアムが見られていることに気づかないよう、布で隠しながらの慎重な作業だった。
風呂桶に追いやられる。
髪を何度も梳き、香油で濡らし、梳き、指先で頭を揉み、お湯で香油を流す。
二回ほどそれを繰り返したとき、髪の先からすべての疲れが抜けたようだった。
体を洗われて大きな拭き布で包まれたとき、ウィリアムはおもわず安堵の息をついた。
「気持ちよかったでしょ?」
「…………あぁ」
少女は嬉しそうに笑った。
胸を押さえていた布は籠に放り込まれたまま。
柔らかな肌着が小さな胸を覆う。
いつから隠すようになっただろう。
今はもう慣れてしまって、最初がどれだけ窮屈だったのかも忘れていた。
「……シルヴィア」
「なに?」
ウィリアムと視線を合わせずに少女は返事をする。
手首に王子の証しである輪がはめられる。
いつ見ても囚人のようだ。
すぐに上着に隠れてしまうが、冷たい感触までは消えない。
「わたしの……わたしの体のことは、誰にも、言わないでほしい」
シュワルド国王一家が首都を出て半月。
馬で行けばもう国境に着いた頃だが、淑女たちを乗せた大きな馬車は遅々としか進まない。
慣れない長旅で不満が口をつき、さらに進みは遅くなるだろう。
まだ敵に知られてはいけない。
国王一家が国を出るまでは、誰にも知られてはいけないのだ。
「頼む」
頼むしかなかった。
他にどうする術も思いつかない。
どうしたらこの窮地を抜けられるのか教えてくれるものはいない。
一人で大きな城にいて、ただ敵がくるのを待っていればよかった。
敵に見つかったら城の背後の大河に飛び込めば、それで役目は終わるはずだった。
ただ死ぬだけのものに食料は要らない。
服を着替える必要もなければ、毎日寝台の敷布を替える必要ももちろんない。
話し相手も、護衛するものなどもってのほかだ。
勅命を受けたときは、少しだけ悲しかった。
未だ実感はわかないが血縁者に、死ねと言われると、まるで自分は手ごでね作られた駒のように思える。
粘土のあるかぎり大量に作られる駒の、ひとつ。
それだけの価値しかない。
今度こそ役目を成し遂げるのだ
失敗は許さん
真っ白な顔をした父は、真っ赤な目で娘を見下ろした。
言うだけ言って背を向け、結局一度も抱きしめてはくれなかった。
婆やが亡くなって、抱きしめてくれる人が他にいないことを知った。
涙が出た。
王宮の一室に一人で立ち尽くし、外の喧騒は他人事だった。
まるでお芝居を見ているようだった。
怯える幼い王子の姿より、そのずっと後ろを歩く父の姿が目に焼きついた。
どんなに熱く見つめても、見つめ返してはくれなかった。
涙が止まらなかった。
嗚咽が出るたび喉が痛んで、胸が苦しくなる。
俯いた視界に脚が入り込んだ。
そばにきた少女がウィリアムの背中をゆっくりと撫でる。
むずがる赤子を宥めるように。
それがとても優しい手だったので、ウィリアムの目からは違う涙が溢れた。
死を望まれた悲しさと、敵を待ち望むだけの侘びしさと、独りであることの孤独感が、自分の胸を充満していたのだと気づく。
幼い頃の思い出に浸って現実から逃げ、すべての努力を放棄した。
生きていも報われないから、死を甘受しようとしていた。
生きようともせず、進んで死も選ばない。
曖昧な時間を空想でごまかし、そのときをただ待っていた。
せめて敵が目の前に来ても逃げれば囮としての時間は延び、他国へ逃げようとするものたちの時間を作ってやれるだろう。
本当に王命を完うようとするならば、城にとどまらず、敵に足跡を見せながら逃げるべきだ。
『あなたは、自分の命の重たさが、どれくらいあるのか知らないの?』
それは、誰一人として訊ねてはくれなかった言葉。
問われれば、知っている、と答えただろう。
惜しいと思うくらいの重さはあると、答えただろう。
「王子様……」
優しい声がする。
暖かな手が背中を撫でる。
大好きな遊び仲間が、泣き虫のウィリアムをいつもそうやって慰めてくれたように。
懐かしい。
「会い、た、かった」
「え?」
「も、一度……会いた、かった……」
手の甲で涙を拭う。
拭っても拭っても、涙は湧き出す。
「……クーラ、に、もう一度、あ……会いたかっ、た……。
あの、森、で……大き、な、庭、で。
も、いちど……」
別宅で露台越しにではなく。
城の大きな廊下ですれ違うだけでなく。
ひざまずかずに、これまでと同じように手を握っていて欲しかった。
それだけのために城に戻った。
監視の目の厳しい別宅でなく。
王子と騎士でなければならない人前ではなく。
婆やの優しい目に見つめられる、森のような庭で会いたかった。
そこでは王子も騎士もなく、手をつないでも、見つめ合ってもよかったから。
わたしの姫君
もう一度、耳元で囁いてほしかった。
自分はいつだって、彼の姫でいたかった。
ずっとそばにいてほしかった。
彼だけは信じていた。
少女の声が耳元でした。
パチパチと薪の爆ぜる音のする部屋で、じっとそれに耳を澄ませる。
もう一度、声がした。
信じて───そんな響きだった。
突然の覚醒に胸が苦しい。
いつのまにか陽は頂点に差し掛かり、長いことうたた寝していたことを教えてくれた。
汗をかいていた。
(水を浴びよう)
一階に降りて井戸の部屋に行く。
人がいたときは自室の浴室まで湯が運ばれたが、今はそんなこともできない。
井戸から水をくみ上げ、風呂桶に注ぎ込む。
「王子様?」
水の音が聞こえたのか、扉の向こうから少女が顔を覗かせた。
「……水浴び?」
「あぁ、汗をかいたんだ」
「それで、水を?」
「そうだ」
「…………」
火の起こし方がわからないため今まで水で体を拭いていることを知り、少女は目を剥いた。
「風邪を引くわ。
沸かしてあげるから、少し待ってて」
風呂桶いっぱいのお湯を沸かすのにはとても時間がかかった。
それだけでなく、釜から風呂桶に運び、湯加減を見るのだ。
風呂に入るだけで大変なことなのだと知った。
「背中を流してあげるわ」
「え? い、いや、それはいい!」
「なに慌ててるの? 背中を流すだけよ」
「あ、ひ、ひとりでできるから、い、いいんだ」
「遠慮しないで。
女同士ですもの。
かまわないでしょ?」
「え?」
素の声が出た。
「わたし毎日、お嬢様のお風呂役だったのよ。
きっと巧くできるわ」
ね、と少女は笑って、呆然とするウィリアムの手を引いていく。
上着のボタンをひとつ外されたとき、慌ててその手を掴んだ。
「待て! どうしてわたしが女なんだ!?」
少女はきょとんとした顔でウィリアムを見上げる。
「どうしてって……。
女の子でしょ、あなた?」
「わ、わたしは、この国の王子だぞ?」
「そう聞いたわ。
でもほら、あなたの手は女の子の手だわ。
大きな服で隠しているけど腰も細いし、何より歩き方が男の人じゃないもの。
すぐにわかるわ」
「どうして……」
「どうかしたの? 他の人に言ってはいけないなら、言わないわ。
言わなければいいだけでしょ?」
「……アインスの間者か?」
「わたしはそんなに器用じゃないの。
髪を洗ってあげるわ。
きれいな色なのに、もったいない」
少女の細い指がウィリアムの髪を梳く。
ウィリアムの髪は香ばしく焼けたパンの皮のような、濃厚な甘さの栗のような色をしている。
王族の中で唯一、明るい髪の色だ。
「わたしは……」
「王子様と呼んだほうがいいのならそうするわ。
でも王子様だって、侍女に髪を洗わせるでしょう?」
少女はてきぱきとウィリアムの服を脱がせにかかる。
乳母と慣れた侍女以外に肌を見せるのは初めてだ。
緊張した。
それを知ってか少女の手つきは、ウィリアムが見られていることに気づかないよう、布で隠しながらの慎重な作業だった。
風呂桶に追いやられる。
髪を何度も梳き、香油で濡らし、梳き、指先で頭を揉み、お湯で香油を流す。
二回ほどそれを繰り返したとき、髪の先からすべての疲れが抜けたようだった。
体を洗われて大きな拭き布で包まれたとき、ウィリアムはおもわず安堵の息をついた。
「気持ちよかったでしょ?」
「…………あぁ」
少女は嬉しそうに笑った。
胸を押さえていた布は籠に放り込まれたまま。
柔らかな肌着が小さな胸を覆う。
いつから隠すようになっただろう。
今はもう慣れてしまって、最初がどれだけ窮屈だったのかも忘れていた。
「……シルヴィア」
「なに?」
ウィリアムと視線を合わせずに少女は返事をする。
手首に王子の証しである輪がはめられる。
いつ見ても囚人のようだ。
すぐに上着に隠れてしまうが、冷たい感触までは消えない。
「わたしの……わたしの体のことは、誰にも、言わないでほしい」
シュワルド国王一家が首都を出て半月。
馬で行けばもう国境に着いた頃だが、淑女たちを乗せた大きな馬車は遅々としか進まない。
慣れない長旅で不満が口をつき、さらに進みは遅くなるだろう。
まだ敵に知られてはいけない。
国王一家が国を出るまでは、誰にも知られてはいけないのだ。
「頼む」
頼むしかなかった。
他にどうする術も思いつかない。
どうしたらこの窮地を抜けられるのか教えてくれるものはいない。
一人で大きな城にいて、ただ敵がくるのを待っていればよかった。
敵に見つかったら城の背後の大河に飛び込めば、それで役目は終わるはずだった。
ただ死ぬだけのものに食料は要らない。
服を着替える必要もなければ、毎日寝台の敷布を替える必要ももちろんない。
話し相手も、護衛するものなどもってのほかだ。
勅命を受けたときは、少しだけ悲しかった。
未だ実感はわかないが血縁者に、死ねと言われると、まるで自分は手ごでね作られた駒のように思える。
粘土のあるかぎり大量に作られる駒の、ひとつ。
それだけの価値しかない。
今度こそ役目を成し遂げるのだ
失敗は許さん
真っ白な顔をした父は、真っ赤な目で娘を見下ろした。
言うだけ言って背を向け、結局一度も抱きしめてはくれなかった。
婆やが亡くなって、抱きしめてくれる人が他にいないことを知った。
涙が出た。
王宮の一室に一人で立ち尽くし、外の喧騒は他人事だった。
まるでお芝居を見ているようだった。
怯える幼い王子の姿より、そのずっと後ろを歩く父の姿が目に焼きついた。
どんなに熱く見つめても、見つめ返してはくれなかった。
涙が止まらなかった。
嗚咽が出るたび喉が痛んで、胸が苦しくなる。
俯いた視界に脚が入り込んだ。
そばにきた少女がウィリアムの背中をゆっくりと撫でる。
むずがる赤子を宥めるように。
それがとても優しい手だったので、ウィリアムの目からは違う涙が溢れた。
死を望まれた悲しさと、敵を待ち望むだけの侘びしさと、独りであることの孤独感が、自分の胸を充満していたのだと気づく。
幼い頃の思い出に浸って現実から逃げ、すべての努力を放棄した。
生きていも報われないから、死を甘受しようとしていた。
生きようともせず、進んで死も選ばない。
曖昧な時間を空想でごまかし、そのときをただ待っていた。
せめて敵が目の前に来ても逃げれば囮としての時間は延び、他国へ逃げようとするものたちの時間を作ってやれるだろう。
本当に王命を完うようとするならば、城にとどまらず、敵に足跡を見せながら逃げるべきだ。
『あなたは、自分の命の重たさが、どれくらいあるのか知らないの?』
それは、誰一人として訊ねてはくれなかった言葉。
問われれば、知っている、と答えただろう。
惜しいと思うくらいの重さはあると、答えただろう。
「王子様……」
優しい声がする。
暖かな手が背中を撫でる。
大好きな遊び仲間が、泣き虫のウィリアムをいつもそうやって慰めてくれたように。
懐かしい。
「会い、た、かった」
「え?」
「も、一度……会いた、かった……」
手の甲で涙を拭う。
拭っても拭っても、涙は湧き出す。
「……クーラ、に、もう一度、あ……会いたかっ、た……。
あの、森、で……大き、な、庭、で。
も、いちど……」
別宅で露台越しにではなく。
城の大きな廊下ですれ違うだけでなく。
ひざまずかずに、これまでと同じように手を握っていて欲しかった。
それだけのために城に戻った。
監視の目の厳しい別宅でなく。
王子と騎士でなければならない人前ではなく。
婆やの優しい目に見つめられる、森のような庭で会いたかった。
そこでは王子も騎士もなく、手をつないでも、見つめ合ってもよかったから。
わたしの姫君
もう一度、耳元で囁いてほしかった。
自分はいつだって、彼の姫でいたかった。
ずっとそばにいてほしかった。
彼だけは信じていた。
少女の声が耳元でした。
パチパチと薪の爆ぜる音のする部屋で、じっとそれに耳を澄ませる。
もう一度、声がした。
信じて───そんな響きだった。