彼は、いつ飛び出すかわからない心臓を押さえるため、胸から両手を離せないでした。





 彼が大師の家に居候してすぐのことだった。
「ディット、しばらく留守にする。おまえは院に戻れ。支度をしろ。済んだら外で待て。飛ぶぞ」
 部屋から出てきたと思ったら、大師は早口にそう言った。
 目を丸くした彼は「はい」も「いいえ」も言えないまま院に戻された。

 院に戻った彼を見て、師匠はどんな失礼を働いたのかと怒り、兄弟子たちは出戻りかと笑い、友人たちは里帰りかと言った。
 大師が留守ならばお世話役の彼は大師の家にいる理由がない。だから戻ってきただけなのに、この言われよう……。
 いじけたくなった。

 大師は、大師とは名ばかりで引退した身。人里離れた小屋のような家に、世話役の彼と暮らしている。
 それでもときおり、どうしてもと願われ、任務につく。
 長くてもひと月、そう聞いていたので、彼はのんきに過ごしていた。
 兄弟子の片付かない部屋を片付けたり、教室が丸ごと一室氷漬けになったと聞いては始末に走り、師匠の資料作りを手伝ったり、突然現れた悪魔から逃げたりと、やることはたくさんあった。
 役に立ったかはともかく。



 呼び出されたのは、まだ日も明けない早い時刻。
 敷地を同じくする本部の案内人が彼の部屋を訪れ、彼はそのあとをついて行った。
 当番の見習いたちが食事の支度や掃除に取り掛かっている。まだそれくらい朝は早い。

 白い息を吐きながら、見習いたちは冷たい水に手を晒す。その手の赤さは、つい最近の自分の手と同じ色だった。
 十三年。最悪に長い見習い期間。
 諦めようと思ったことより、水の冷たさに涙が出そうになったときのほうが多かった。



「こちらへ」
 案内人が立ち止まったのは大きな扉の前だった。扉は彼の背丈の三倍……いや四倍はありそうだ。
 なのに、案内人が扉の手で触れると、音もなく巨大な扉は開いた。
 本部ともなれば、案内をする人だってすごい高位の方なんだな、と彼は思った。

 彼は巨大な扉の向こうに足を踏み入れた。
「…………わー……」
 最初は言葉らしい言葉もない。
 興奮に高まった体から白い息が漏れる。

 仰向くほどの巨木の乱立。壁のような幹に張り付く蔦。絨毯のように深い苔。
 苔の小さな花がふらふらとそよ風に吹かれる様が愛らしく、大岩の上から長い枝を垂らした花の目の覚めるような白さが眩しい。
 目を凝らせば深い緑が延々と続いている。まるで深い泉の底を覗き見るような濃い色。
 足元を見れば、踏み均された獣道が一本。

 しばらく歩くと、石造りの東屋に突き当たった。
「こちらだ」
 東屋から人の声がして、手だけがひょいと出てきて手招きされる。
 いくつもの階段と二つの踊り場を登っていくと、そこには一人の女と、一人の男と、フードを深くかぶって顔を隠し、どちらかわからないがもう一人いた。

 手招きされて一歩石床に足を踏み入れると、暖かい空気がふわりと彼を包み込む。
 吐く息が白く染まることがなくなった。

 女も男も彼は知っていた。
 女は導師で、院で何度か見かけたことがある。誰もが憧れる美しい導師だ。
「……大師?」
 男……彼がお世話をしているはずの大師は、石の腰掛けに外套を敷いただけの上に仰臥していた。
 顔を隠した人が一本、指を立てて口元にあてた。

 顔を隠しているということは、かなりの高位者だ。
 導師である女がフードを取り、顔を晒しているということは、彼女のほうが下位にあたるということだ。
 おそらく大師と同位かそれ以上なのだろう。

 彼は、ドキドキと鳴る胸を押さえていなければならなかった。そうしていなければ、心臓がいつ飛び出してくるかわからないから。

 大師に近づいて、彼は膝をついた。
 横たわる大師の服は黒くてわからないが、手や首や頬に血がついている。そして目を閉じて治療にあたっている女導師。
 彼は眩暈がするようだ。

 顔を隠した人が彼の耳元で囁いた。
「返り血だ。頭と背中を強く打ち付けて、動けない」
 彼は顔を隠した人を見て、その人がしっかりうなずくのを見た。
「どうして……大師が、こ、こんな……?」
「詳細はまだわからない。彼が起きるまで待ちなさい」
 顔を隠した人の声は若い男のもので、落ち着いていた。口元には笑みさえあって、彼は大師は大丈夫なのだと思った。



 女導師が手を下ろした。
「しばらくすれば、お目覚めになるでしょう」
「ご苦労だった。下がってよい」
 女導師は金色の髪をゆっくりと下げ、東屋を下りていった。

「あの……」
「まだ、起きだす時刻ではなかったのだろう?」
「は?」
「おまえはまだ、眠っていたのだろう?」
「は、はい。寝ていました」
「起きてからで良いと言ったのだが、すまなかった」
「いい、いいいいえ。ぜぜんぜん、大丈夫です。
 あの、あ、いえ、大師のことを、その、報せていただいて、あ、あ、あ、ありがとうございます」

 口元が笑った。
「わたしも一度、会ってみたかった、おまえに」
「え?」
「補佐にと、大師本人から言われたのだろう?」
「え? あ、の、いいいいえ。
 あの、実は……実は、最初は大師は、その、外に出るときだけでいいと、大師は言われたんですけど、師匠……俺の師匠が、大師はお目が悪いと聞いて、大師は大丈夫だと言われたんですけど、でも俺の師匠が、遠慮せずとか言って、それでお世話をして差し上げなさいと言って、大師は遠慮されたんですが、でも、今は大師の家に、住み込ませていただいているだけです」

 言ってから、自分でもなんと言ったのかよくわからない説明だと彼は思った。
 顔を隠した人には伝わったようで、そうか、とうなずいた。
「も、申し訳ありません。ご迷惑だったでしょうか。

 あの、し、師匠は、俺の師匠は悪気はなくって。
 あの、ただ俺が大師の補佐に選ばれて、と、とても喜んでくれて、それで、そのあとも頼むと言っていただいて、俺も嬉しくって。

 俺、あ、あの、俺、実は見習い期間がじゅ、十三年もあって、ぜんぜんダメな弟子だったので、師匠はものすごく喜んでくれて、き、き兄弟たちからも良かったなとか言われて、俺もうれしくって。

 あの、でも、も、もしやっぱり、大師が、俺なんかが家まで来たのはご迷惑だっていうなら、俺、あの、い、院に戻りますから。
 あの、えっと、ホントに、し、し師匠は、ホント、ぜんぜん悪気はないんです」

 彼は一所懸命に言い訳をした。
 そうしたら、顔を隠した人はクスクスと笑い出した。
「悪くはない」
「え?」
「大師は、嫌なことは嫌だというし、だめだという。
 本当に迷惑に思っているなら、おまえを家に置いたりはしない」

 彼はそれでも不安だった。
「でも、大師はお優しい方です。
 俺が十三年も見習いやってると聞いて、かわいそうに思ってくださったのかもしれないし……」

 顔を隠した人は口元を手で覆って、笑いを堪えた。
「うん、いや、悪かった。
 ……わたしから聞いたなんて、言うなよ」
「え?」
「大師も……大師は、十四・五年も見習いをしていた」
「え?」

「だからだと思う。おまえの気持ちが良くわかるのだろう。
 ぜひにと誘われて院にはいりはしたものの、師匠を六人も持っても、彼は開花しなかった」
「ろ……!?」
 驚きの声をあげようとした彼の口を、顔を隠した人が押さえた。
 だが遅かった。



 むくり、と大師が起き上がった。

 ゆっくりとした動作で周囲を見回し、彼らを見つけた。
 彼は喜びのあまり大師にすがりつこうとしたが、大師の閉じたまぶたの向こうから殺気が放たれるのを感じて動けなかった。

「…………ここは?」
「森です、大師」
 顔を隠した人が答えた。
「……それは?」
 大師は彼を指差した。
「あなたの世話役だ」
「……いや、そうではなくて、なぜディットがここにいるのですか?」
「心配して駆けつけさせました」
「報せたのは誰です?」
 顔を隠した人は確信犯的な笑みを口元に浮かべた。
「わたしです、大師」

 大師は頭を抱えた。
「お願いです。私的な感情で動かないでください」
「わたしも人間ですので、ときおり感情的になるのです」
「ここをどこだと思っていらっしゃるのですか?」
「森です。わたしの」
「たとえあなたのものであろうと、使い方は選んでください」
「申し訳ない。若輩者ゆえ、感情を抑えきれませんでした」
「ほざけ!」
 大師が叫んだ。
 彼は石床に尻を落とした。

「安静に、大師」
「誰が怒らせているんだ!?」
「……わたし、でしょうか?」
「確信犯め!」
 クスクスと、顔を隠した人が笑った。

「ディット」
 大師は不機嫌な声で彼を呼んだ。
「え? ははははい!」
「ここに入ったこと、ここで見聞きしたことは誰にも……グイド導師にも言ってはならない」
「……え?」
「いいな」
「は、はい」
 訳がわからないが、上位者に言われれば断れないのが下位者の性。

 残念、と呟いて、大師から睨まれる顔を隠した人。
 大師が起きても顔を晒さないということは、大師よりも上位者なのだろう。
 なのにこの打ち解けた様子。兄弟か、あるいは師弟関係なのだろうか。
 怒ってはいるが、大師はいつもより砕けた様子で、顔を隠した人が少しうらやましかった。



「では、これで失礼いたします」
 怒った声で言って、大師は立ち上がった。
 少しふらつくのを見て慌てて立ち上がった彼は、大師の背中に手を当てて支える。
「ディット、血がつく」
「階段があります。危ないですから」
「……すまない」
 いいえ、と彼は首を横に振る。

 帰ろうとする二人の背に、顔を隠した人が声をかけた。
「大師。たまにはわたしも構ってください」
「務めを果たせ!」
 また大師を怒らせ、顔を隠した人は笑った。



 帰り道、大師からケガの訳を聞いた。
 任務直後に仲間を助け起こそうとしたら意外に重く、一緒に転げ落ちてしまい、頭と背中を打ったのだという。
 体に付いている血はすべて仲間のもので、本当に打撲とかすり傷で済んだらしい。

「ここはすごい森ですね。大師の家の周りも深い森ですけど、ここは木の大きさが半端じゃない」
「あ……あぁ、そうだな」
「こんなに大きくなるのに、どれくらいかかるんでしょうね」
「……そうだな」
「鳥はいるけど……獣はいないんですか?」
「……どうだろうな。

 …………ディット」
「はい、大師」
 大師は深いため息をついた。
「ここは、大魔導師の庭だ」
「え?」
「先ほどの方は、その当人だ」
「……………………………………………………………………………………………………………………は?」





 その大陸の中心には、深い森がある。
 乱立する巨木。
 厚い苔。
 濃厚な土の匂いに、鳥たちのさえずり。
 密集する木の葉の隙間を縫って滑り降りる陽射しは、朝露にあたると星のように光る。

 その森は、世界中の魔導士を統べる者の憩いの場所として、初代から大切に受け継がれてきた。
 長寿と大魔力を誇る大魔導師の、庭。

 歴代の主上たちは、館を包む森をこよなく愛した。
 その深い緑と心地良く冷えた静けさは、煩雑する日々の疲れを癒したという。

 そして歴代の主上たちは、この森を作り上げてくれた初代大魔導師に感謝して、その人をこう呼んだ。
『森のグラン・トゥルー』





 でこぼこ主従を見送り、彼は顔を覆うフードを取った。
 かすんだ金髪がさらりと流れ、肩を覆う。

 石の腰掛けに置かれたクッションを整えてそこに頭を乗せると、目を閉じて眠りにはいった。
 その間際、呟く。
「おやすみなさい、お父さん」

 今日も怒られたなー、と彼は笑った。