師匠はまだ来ない。
 しばらく来そうにない。

 それを感じたのは少年だけではなかった。
 兄弟たちは視線を交わしあい、まず一人が教室の扉から外を見た。
「……大丈夫」

 わー、と声が上がった。

 ばたん、ばたんと本が閉じられる音。
 がたがた、がた、と椅子と机が動く音。
 声が重なって、ざわ、ざわざわ、とひとつの音になる。

「…………」
 少年は目を閉じてその音を聞いていた。
 誰かが走って少年の後ろを通り過ぎる。本が一冊、落ちる音。木がぎしぎしと鳴る音は、椅子が二歩足で揺れているのだろう。

「何してんの?」
 少年の右から声がした。
「音、聞いてる」
「おと? 何の?」
「いろんなの」
「……ふーん」
 声は途絶えて足音が遠のいた。



 笑い声がする。足音が絡まる。
 誰かが怒った。木のきしむ音……。
 しばらく、騒々しい音を楽しんでいたら、

 がしゃん

 不吉な音がした。
 目を開けてみると、呆然と佇む兄弟たちの視線が一箇所に集中している。
 少年も椅子から立ち上がって覗き込むと、兄弟たちの視線の先から煙が出ているのが見えた。
 煙は床に落ちた瓶から零れた液体から上っている。瓶は割れて液体はすべて床に広がっている。

 煙は白く、小さい。
 マッチ棒の柄が燃えたときくらいのかすかなもので、すぐに消えた。
 そのあとに現れたものは消えることなく成長した。
 それは兄弟たちの背丈を越し、兄弟のなかで一番大きな兄弟の胴回りよりも大きな腕をし、師匠の唇より赤い舌で大きな唇を舐めた。

「あ」
 一人、兄弟が倒れた。

 ばたん、と兄弟が床に倒れる音と同時に、ほかの兄弟が金切り声で叫んだ。
「あくまだ!」



 足音が絡んだ。どたどたと石の床を鳴らす。
 金属が擦れるような声があがり、耳の奥が痛む。
 誰かの腕が少年の肩にあたった。
 助けて、と兄弟がしがみついてくる。

 少年の背丈よりも少しだけ大きなソレは、振り返って少年と視線を合わせた。
 少年はソレの目玉の真ん中が赤く、赤の周りが黄色で、その周りが黒く、さらに周りが灰色だと知った。

「…………」
 おもしろい色、と少年は思った。
 師匠の部屋を飾る絵よりもおもしろい。

 そのおもしろい色が右に左に動き、また少年の姿を捕らえると、少年は胸がドキドキするのを感じた。
 あの色をもっと近くで見たい、と少年は思った。

 一歩前に出ると、少年の腕にしがみついていた兄弟が金切り声を上げた。
 うるさい、と少年は思った。兄弟の腕を掴んで引き離し、ソレにまた向き合う。
 ソレは少年を待っているかのように佇んでいる。

 もっと近くで見たい。
 一歩前に出る。もう誰も止めない。



 ぐがが、とソレが唸った。
 ソレの腕が振り上げられる。
 腕の先には鋭い爪が二本。

 二本の爪が少年に狙いをつける。
 スパッと、風を鳴らして爪が空を切り、少年の鼻の上に二本の赤い線が走る。

 うるさい、と少年は思った。
 もっとあのおもしろい色を近くで見たい。
 あの爪が邪魔。
 あの腕が動くからだ。
 あの腕を動かすソレが止まらないからだ。



「とまれ」



 白い空気が放たれた。





 その代の大魔導師は非常に若かった。
 若気の至りが目に余った。

 心配した側近たちは、彼に友人を与えた。
 静かで、寡黙で、冷静で、落ち着いた青年だった。

 大魔導師は退屈な時間を青年と話すことで気を紛らわせた。青年は口を挟むことはせず、主の話を辛抱強く聞いてくれた。
 けれどあまりに無口で無表情なので、反応がないことに苛立った大魔導師は、ときおり青年をこう呼んだ。
『氷のアルパス』

 そう呼ばれたとき、青年は少しだけ笑い、そんなに冷たくはないという言葉の替わりに大魔導師の手に触れる。
 気の高ぶった大魔導師は、心地良く冷えた手に冷やされ、冷静さを取り戻したという。





 のちに自分が強大な友人を得るなど知りもしない少年の後ろ姿を、師匠が目撃した。その後ろに幼い弟子たちが隠れている。
 少年は、稽古用に用意した悪魔の幻影を興味深げに観察している。

 悪魔の幻影は、見事なまでに氷漬けにされていた。

「アリー、その目玉の成分を解いたら、その目玉はあなたにあげるわ」
 師匠の言葉に振り返った少年の瞳は、幼い子どもらしく好奇心に満ち、キラキラと輝いていた。

 将来、その輝く瞳が主上に注がれるなど、師匠もまだ知らない。
 とりあえず今は、散らかった教室の片付けを子どもたちに言い渡した。