声をかけられたような気がして、少年は立ち止まった。
 周囲を見回してみるが、それらしい人物はいない。兄弟子が通りすがりに少年の頭をなでていきはしたが、声をかけた様子はない。

 気のせいかと、少年が一歩前に出たときだった。
「………………」
 柱の向こうから男がこちらを見ていた。

 男は柱にしがみつき、柱から顔を半分だして、少年をじっと見ている。
 その瞳は冷たい雨に晒される子犬のようだった。子犬ほど毛深くはないが。

 少年は純粋だった。声をかけたのはあの人だろうと近づいた。
 男はびくりと震えて隣の柱に逃げた。

「………………」
 逃げた? それならあの人じゃないんだな、と少年は背を向けた。
 だがその背中に視線を感じて振り向くと、冷たい雨に震える子犬のような瞳と視線があった。

 少年は親切だった。やっぱり声をかけたのはあの人だろうと、体ごと振り返った。
 男はびくりと震えて隣の柱に逃げた。

「………………」
 少年はやっと、男が変な行動をとっていることに気づいた。いくら世間知らずな少年だって、近づいて逃げるのはひよことハエとイモリくらいだと知っている。

 変な行動をする人には近づくなと兄弟子に言われたのを思い出して、少年は男から逃げ去った。
「あ……」
 背後から男の声が聞こえたような気がしたが、少年は振り返りもしなかった。





 彼を一目見れば、誰もが理解した。
 誰もが彼を『隅のシプィト』かと納得した。

 彼は何が恐ろしいのか、人に近づこうとしない。
 べったりと壁にへばりついていたり、額縁の裏に逃げ込もうとしたり、銅像の背後に隠れたり、兄弟弟子の法衣のなかに滑り込んだり(そのあと蹴りだされる)、隠れるところのない広場にだすと丸まって人間に見えなくなったり(そしてゴミと間違われて捨てられそうになる)、同じ部屋にいても部屋の隅で小さく丸まっていたりと、人前に姿を晒すことを嫌った。
 理由は、誰も知らない。

 誰も知らないが、気が付けば視界の隅にいることから、そう呼ばれるようになった。

 たまに気味が悪いが、特に危害はないので誰もが放っておいてくれた。組織の本部は、力の中枢部だけあって変わり者が多かったので、誰もが慣れてしまっていたから。

 本部は、彼にとって最高の住家だと思われる。





「レン、さっき一緒にいたのは誰?」
 手を洗っていた少年は、後ろから声をかけてきた知人の質問に首をかしげた。
 あの、柱と柱を行き来していた男が誰なのか、少年はまだ知らなかったから答えようがなかった。

 質問に答えない少年を心配して、美しい知人はこう言った。
「いいこと、レン。変な人に声をかけられたら、大きな声で叫んで逃げるのよ」

 少年は師匠の部屋に戻る際、またあの男を見つけ、大声を上げて駆けていった。
 一度も振り返らなかった少年は、男が悲しそうに胸を押さえて倒れこんだのに気づかなかった。

 男は道に迷って助けを求めたかったのだなんて、少年は気づきもしなかった。