彼は笑いを堪えようと歯を食いしばったが、それでも緩みそうになる口元を手で隠した。

 目の前には自分と変わらないくらいの男がいる。
 同じくらいの背丈、同じくらいの肉付き、同じくらいの年齢。
 実際には親子ほどの年が離れている。
 それから、彼のほうが先輩だ。

「笑ってくださって結構!」
 そう言われれば、遠慮なく笑う。
 高らかに。腹を抱えて。盛大に。



 どれくらい笑っていたのか、笑いすぎて腹が痛い。声もかすれてしまった。
 男を見ると、憮然とした顔で先刻と変わらない姿勢で椅子に座っている。

 真面目な男だ。
 派遣先が隣同士になって初めて会ったが、その前から噂は聞いていた。
 素質は充分すぎるくらいあるのに開花せず、十年以上見習いを甘んじていた男。
 貴重な能力を持っているのに、たった一人のためにしか使わないと公言した男。

 しかし今その男は、生涯の伴侶と決めた妻を亡くし、忠誠を誓った主を亡くし、父と慕った師匠も亡くした。
 あとは組織の長である大魔導師をうなずかせることができれば、男の能力は使いたい放題。
 その恩恵を一番に受けたのは、何を隠そうこの自分だと、彼は思っている。事実そうだ。

 ここ最近は特に多い。
 組織の長は代替わりしてまだ日が浅い。慣れない長を手助けするのは彼らの役目だが、それにだって限界がある。

 使えるものは何でも使えと、彼は引退した男を引っ張り出した。
 弱みをちらつかせると男はしぶしぶ引き受けるが、完全に復帰する気はない。
 今のところ、彼はそれでも構わなかった。だって結局引き受けてくれるから。

 その弱みが、別のところから漏れたらしい。

「言っとくけど、オレじゃない」
「…………………………………………………………………………そうですか」
 少しも信用していないようだ。
「ホントだって。たまには信じろよ」
「百年に一度くらいなら信じます」
 何百年生きる気だ、こいつは。

 男は深いため息をついた。
「しばらく、家には来ないでください」
「そうするよ」
「……できれば永遠に」
「寂しいこと言うなよ。オレとおまえの仲じゃねぇか」
「どういう仲ですか! あなたがそういうことを言うから、誤解を招くんです」
「誤解って?」
 男は沈黙した。
 言いたくないようだ。言われなくても薄々気づいているが。

 この男を追い掛け回している後輩がいる。彼がときおり男と連絡を取っていると知って、男と彼の仲をあらぬ方向へ誤解したようだ。
 それを知ったとき、おもしろすぎて腹がよじれるかと思った。

 確かに自分は見境がないし、下半身は年中元気で、この男を利用していはいるが、この男にだけは触りたくないし触られたくない。
 だってこの男、視力はまったくないというのに壁の向こうの部屋の間取りを言い当て、近づいただけで相手の喜怒哀楽を読み取り、触れるとその過去を視る───感応能力者なのだ。



 とにかく、と男は話を無理に戻した。
「これはお忘れのようでしたので、お返ししておきます」
 男が大事そうに抱えていた包みを机の上に置き、開いてなかを見せた。
 赤い腕輪。
 彫られた竜は、上位の証し。

「要らない?」
「要りません」
 目が見えないくせに目ざとく見つけたようだ。
 せっかくわざと置いていったのに……。

 彼は赤い腕輪を手に取る。
「なぁ。オレさ、結構お年よりなのよ」
「はぁ……」
 気のない返事。
 しかたがない。見かけはピチピチ男前なのだ。……って見えてないか。

「おまえより先にオレのほうが人生引退しそうなんだよね」
「……それで?」
「おまえに、オレの後継を任せたいわけよ」
「嫌です」

 即答かよ。

 少しくらいは考えてくれても良いのに、先輩のお願いを無残にも真っ二つにしやがった。

「なんだよ、ティ……とと。現大師はおまえに懐いてんだぜ? 見てやってくれよ。
 かわいい甥っ子だろ?」
「違います。孫の子です」
「たいして違わねぇよ。

 大体おまえ、昔からガキと年寄りの面倒見はよかったじゃねぇか。
 セアトだけじゃなく、イバ導師の最期も看取ったんだろ? あとはゼイム導師か?

 ヒルボってやつは、おまえかわいがってたよなぁ。
 シプィトっだったかいう、あのヘンテコな子どもも引き取ってたらしいし。
 レイんとこのあの、エットはともかくゴロは性格もいいし、腕もいいよなぁ。

 んで、一番弟子のキヤラなんておまえ、そいつのことで嫁さんとケンカまでしたそうじゃないか。
 なんだよ、あいつそんなに美人だったっけ?

 あとなんだっけ、あの……このまえぎっくり腰で運ばれたやつ! あいつもおまえの後輩だろ? あ、いや、弟子か?」

「……………………」
「年寄りのオレとガキの現大師の面倒見ると思ってさぁ。
 イヤ実際、オレより適任だと思うぜ。絶対イイって」
「………………………………」
 満面の笑みで推薦してやったのに男は憮然とした顔だった。

 なかなかうんと言わない頑固さに、彼は口元だけで笑った。
「長老を継げって言ってんじゃないんだ。そっちは別にしてやるから、側近は継げ」
 命令口調に、男は眉間のしわを深くする。

「側近は現大師がお決めになります」
「おまえがイヤって言えば、あいつは諦めちまうさ。大好きな“お父さん”に嫌われたくないからな」
「っ…………お父さんはやめてください」
「おしめ替えてやったんだろ?」
「替えて差し上げたのは、わたしだけではありませんでした」
「遠慮するな」
「どういう遠慮ですか!

 いいかげんにしてください!」

 とうとう男はキレた。

 彼は口元が知らずに緩んだ。



 遠くから、地響きがする。
 どどどどどど……と四つ脚の獣が駆けてくるような。
 男の表情が強張る。大きな足音に良い思い出がないのだろう。

 余計におかしくて「ぷ」と声が漏れてしまう。聞きとがめた男は抗議をしようと開いた口を閉じ、諦めて印を切った。
 風と光が窓辺で渦を巻く。

 ここは彼の部屋だ。
 彼の領域で、彼が一番に力を振るい、他人は力が弱まるはずの場所で、見事な魔法陣を描いたのは、紛れもなくこの盲目の男。
 その力の素晴らしさと技術力には毎回目を見張る。

 風の力で窓が押し開かれる。

 観賞している間にみるみる魔法陣から現れる、獣。
 黄色い羽根。赤い脚に、明るい緑色のくちばし……なんて派手な鳥だろうと暢気に思っていると、男は走りよってその背に乗り、開かれた窓から飛んでいった。
「失礼いたします!」

 真面目な男は、窓から出て行くときも真面目だった。





 大魔導師の側近に、変わった男がいる。
 長年、大国の派遣士を務めていたが、大魔導師の交代と同時に側近に選ばれた。
 外では顔を晒さない高位の身でありながら堂々と顔を出し、賑わいのある町を一人歩きし、好みの女性は逃がさなかった。
 面倒な仕事がはいると、弟子ばかりでなく兄弟弟子や同僚まで遠慮なく引きずり込み、師匠を困らせた。
 その師匠も亡くなるとますます行動は大きくなる。

 そういった問題行動はあるものの、側近に選ばれるほどの実力はある。
 だから厄介だった。
 一度頼みを聞けば二度三度と引きずり込まれ、断れば報復が恐ろしい……。
 その報復がまた、階段の最後にけつまずく、針の穴に絶対に糸が通らない、酒は必ずぬるく、朝起きたら屋根の上にいて、鳥が頭の上に乗り、鶏に追いかけられ、靴が片方なくなり……そんな些細で鬱陶しいものばかりだったため、なお嫌がられた。

 面倒事に引き込まれた経験を持つ弟子始め、同僚や兄弟弟子たちは、まだ被害を受けたことがない者に言う。
 なるべく彼とは会わないようにと。

 彼は『禍のギー』だから、と。





 男が鳥にのって飛び立ってすぐに、扉が外から蹴破られた。
「大師!」
 大男が一人、駆け込んできた。彼には見向きもせずに、開けられた窓に突進する。
 そのまま落ちるかと思ったが、さすがに思いとどまったようだ。

 舌打ちして大男が振り返る。
 彼を見て驚き、顔が青ざめる。失礼なやつ。
「う………………………………お、お邪魔しました」
「おう」
 彼は片手を上げて答えた。

 もう少し、そう、あの男が腕輪を出してくる前に乱入してきたら褒めてやったのに、と彼は思った。