そこは、一年を通して寒い日々の長い国だった。
一番寒い時季でも凍らない湖が山々に抱かれており、細い川が徐々に太くなり、麓の国の中心を貫いている。
中心を貫く川は人々の生活の糧。
水を汲み、体を洗い、洗濯をし、死者を送る───。
その川の水位が低くなっているのに気づいたのは子どもたちだった。いつものように飛び込んで遊んでいたら、思うような深さまで沈まなかった。
大人たちが気づく頃には不穏な噂が流れ出し、市長から要請を受けた国軍は査察隊を編成し、源泉を目指して山に登ったが一人たりとも還らなかった。
重く受け止めた王が組合に依頼をしたときには、水位は子どもの足首までもなかった。
「そこで二人の先行者を送ったところ、悪魔の気配を感じて引き返させました。周辺を調べたところ、その悪魔は問題の湖のそばに居座って」
「待て」
別の男の声が遮った。
「そんな難しい言い方をするな。
すまない。わたしが説明しよう」
彼女は肩に大きな手が置かれるのを感じた。
「川の水が減っているのを知っているかい?」
彼女はうなずいた。
見たことはないが、周りの声がそう言っていた。
「川の一番上には湖があって、水はそこから流れてきている。その大切な湖を、いま、一体の悪魔が独り占めしている」
「悪魔が?」
そうだ、と男の声が言った。
「悪魔は、願いごとを叶えてくれたら、湖を独り占めするのをやめるといっている」
「願いごとって?」
男の声が一瞬躊躇ったような気がした。
「君に、自分の顔を見てほしい、と」
彼女は口をポカンと開けた。
悪魔が。
みんなの大切な川を独り占めした悪魔が。
顔を見てほしい?
「なにそれ?」
「うん。わたしも何だそれはと、最初は思ったよ」
「あたし、見えないよ。目ぇ見えないもん」
「大丈夫。わたしが君の夢の中に入り込んで、悪魔の顔を見せてあげよう」
「夢のなかで?」
「そうだ」
「…………あたしが? なんで、あたしが悪魔の顔みなくちゃいけないの?」
「考えてごらん。君は森の中でとつぜん、悪魔と会ったらどうする?」
「逃げるよ」
「そうだね」
「だって怖いもん」
「そうだ。でも、君は会った人が悪魔とは知らなかった。だから逃げなかった」
「え…………え、あ、だ、だ、だれの、こと?」
男の声がうなずいたような気がした。
「君がいま考えている人だ」
「ウソ!」
彼女は立ち上がった。周囲の気配を探る。
母がいないか。兄がいないか。
せめて祖母がいてくれれば、こんなのは嘘だと言ってくれるはず。たとえ本当でも嘘だと言ってくれるはず。
なのに誰もいない。
自分の家なのに、自分以外の家族はみんな外に出されてしまった。
それから何か、馬車みたいな音のするものに乗せられて、ゆらゆら、ごとごと揺すられて、「着いたぞ」と若い男の声に抱えあげられて、歩いてどこか家に入ったような気がして、ぐるぐる、ぐるぐる歩いて、椅子に座らされた。
聞いた話では市長の家で、応接間で、二人の男と彼女しかいない。
若い声のほうが部下で、魔導士で、彼女の横に立っている。
彼女にもわかるように話をしてくれているのは上司で、こっちも魔導士。
「ウソだ」
「嘘じゃないんだ。君が森のなかで出会った人は、悪魔だ」
「ウソ!」
「本当だ」
「ウソだ! そんなことないもん!
いじわるされなかったよ。カゴを持ってくれて、靴を探してくれたもん。
悪い人じゃないよ。
悪魔なんかじゃないんだから!」
男の声は苦いものを食べたときのような声で言った。
「悪魔なんだ」
残酷はほどにはっきりと。
「悪魔は君に、自分は人間だとは言わなかった。
だって君はその人に、悪魔か人間なのか聞かなかったから。
だから悪魔は、自分が悪魔であることを、君に言わなかった」
うそ、うそ、と彼女は言い続けた。
足元にうずくまって両手で耳をふさいだ。けれどすでに聞いてしまった言葉が頭の中をぐるぐると回った。
悪魔だ、悪魔だ、悪魔だ、悪魔だ、悪魔だ悪魔だ悪魔なんだ……。
「うそぉ……」
大きな手が髪を撫でる。
優しい男の声。
「今まで君は、悪魔は怖い生き物で、ひどいことばかりをするとしか聞いたことがなかったと思う。
それがウソか本当か、確かめてみないか?」
彼女はゆるゆると頭を上げた。
頬にべったりとついた涙が温かい指で拭われる。
「わたしの知る悪魔は、少し変わっているが、自分が美味しいと思うものをわたしに勧めてくれる。そのうちの半分は、確かに美味しいものだったよ」
「悪魔って、人間を食べるんだよ。あんたも人間食べたの?」
「その悪魔は人間を食べないんだ。人間と同じものを食べる。
ほかにも、家族と離れて暮らす女の子が寂しくて眠れないとき、唄を歌ってくれる悪魔もいる」
「悪魔の歌をきいたら、死んじゃうんだよ」
「でもその子は何度聞いても生きているよ。
悪魔だって、誰かに優しくしたいときがあるんだよ」
「…………ほんとう?」
「本当だ」
少女はスカートのポケットに入っているものを握りしめた。彼がくれた最後の飴玉。
これがなくなったら、また会ってくれると約束した。
彼は、優しい悪魔だろうか。
また会うという約束を守ってくれるだろうか。
会っても彼女は彼の姿を見ることができないのに、彼はそれでもいいのだろうか。
それとも、彼女の目が見えないからいいのだろうか。
自分が悪魔だと知られずにすむから、また会おうと約束してくれたのだろうか。
でも彼は、彼女に顔を見てほしいと言っている。
見なければ、聞かなければ彼が悪魔だと知らずにいたのに、どうしてばらしてしまうのだろう。
「しらなくて、いいのに」
「え?」
「悪魔だなんて、知らなくてもいいのに」
「うん。そうかもしれない。
でも、知ってほしかったんだ。悲しみが深くならないうちに、君に知ってほしかったんだ」
「どうして、あたしに?」
「さあ? どうしてなのか、会って聞いてみるといい」
少しだけ間を置いて、彼女はうなずいた。
「ありがとう」
「……ちがうよ。会うって、約束してただけなんだから」
「そうか。
それじゃ、今からわたしは君の夢の中にはいるからね。
大きくて黒い獣を一頭連れてくる。
その獣に向かって、君の悪魔の名前を呼ぶんだ」
「……それだけ?」
「そうだよ」
「呪文とかいらないの?」
男の声は笑った。
「悪魔の名前は、名前そのものが呪文なんだ。
君は、君の悪魔にとって、最強の呪文を知っている。
あの悪魔は、もう君のものなんだよ」
原因不明の高熱に倒れ、視力を失った少女がいた。
少女は十五歳まで生きることができたが、そのあいだ成長するにしたがい体は弱っていった。
その地方では、死の間際、死後も会う約束をした人の名前を呟く風習があった。
だが少女が呟いたのは母でもなく、兄でもなく、祖母でもない人の名前だった。
『ファフェルアイオ……』
最期を看取った家族と親しい人々は、少女は短い生涯の中で恋の一つもできたのだろうと、悲しみの中で少しだけ微笑んだ。
人々が彼女の死を惜しみ、少女の恋を祝福する間、一人の男が席を外したことには誰も気づかなかった。
そして湖を抱く山々の中でその男が自らの心臓を取り出して湖に投げ捨てたことは、彼を知る魔導士しか知らなかった。
「死ぬぞ」
「そうだな」
男は静かに応え、笑った。
「悪魔は死なない」
「そうだったな。……消えるぞ」
「世に未練はない」
「悔いもない、か」
羨ましいな、と魔導士が言った。
男は自分の心臓が沈んだ湖を眺め、魔導士はその男を見つめる。
陽が傾き、山の向こうに消え去ろうとする。赤々と燃える太陽に照らされる。
夜が頭上から覆い被さろうとする。
陽が沈む。
赤々と。
その最期の一線を。
男は目を細めて見送り、消えた。
一番寒い時季でも凍らない湖が山々に抱かれており、細い川が徐々に太くなり、麓の国の中心を貫いている。
中心を貫く川は人々の生活の糧。
水を汲み、体を洗い、洗濯をし、死者を送る───。
その川の水位が低くなっているのに気づいたのは子どもたちだった。いつものように飛び込んで遊んでいたら、思うような深さまで沈まなかった。
大人たちが気づく頃には不穏な噂が流れ出し、市長から要請を受けた国軍は査察隊を編成し、源泉を目指して山に登ったが一人たりとも還らなかった。
重く受け止めた王が組合に依頼をしたときには、水位は子どもの足首までもなかった。
「そこで二人の先行者を送ったところ、悪魔の気配を感じて引き返させました。周辺を調べたところ、その悪魔は問題の湖のそばに居座って」
「待て」
別の男の声が遮った。
「そんな難しい言い方をするな。
すまない。わたしが説明しよう」
彼女は肩に大きな手が置かれるのを感じた。
「川の水が減っているのを知っているかい?」
彼女はうなずいた。
見たことはないが、周りの声がそう言っていた。
「川の一番上には湖があって、水はそこから流れてきている。その大切な湖を、いま、一体の悪魔が独り占めしている」
「悪魔が?」
そうだ、と男の声が言った。
「悪魔は、願いごとを叶えてくれたら、湖を独り占めするのをやめるといっている」
「願いごとって?」
男の声が一瞬躊躇ったような気がした。
「君に、自分の顔を見てほしい、と」
彼女は口をポカンと開けた。
悪魔が。
みんなの大切な川を独り占めした悪魔が。
顔を見てほしい?
「なにそれ?」
「うん。わたしも何だそれはと、最初は思ったよ」
「あたし、見えないよ。目ぇ見えないもん」
「大丈夫。わたしが君の夢の中に入り込んで、悪魔の顔を見せてあげよう」
「夢のなかで?」
「そうだ」
「…………あたしが? なんで、あたしが悪魔の顔みなくちゃいけないの?」
「考えてごらん。君は森の中でとつぜん、悪魔と会ったらどうする?」
「逃げるよ」
「そうだね」
「だって怖いもん」
「そうだ。でも、君は会った人が悪魔とは知らなかった。だから逃げなかった」
「え…………え、あ、だ、だ、だれの、こと?」
男の声がうなずいたような気がした。
「君がいま考えている人だ」
「ウソ!」
彼女は立ち上がった。周囲の気配を探る。
母がいないか。兄がいないか。
せめて祖母がいてくれれば、こんなのは嘘だと言ってくれるはず。たとえ本当でも嘘だと言ってくれるはず。
なのに誰もいない。
自分の家なのに、自分以外の家族はみんな外に出されてしまった。
それから何か、馬車みたいな音のするものに乗せられて、ゆらゆら、ごとごと揺すられて、「着いたぞ」と若い男の声に抱えあげられて、歩いてどこか家に入ったような気がして、ぐるぐる、ぐるぐる歩いて、椅子に座らされた。
聞いた話では市長の家で、応接間で、二人の男と彼女しかいない。
若い声のほうが部下で、魔導士で、彼女の横に立っている。
彼女にもわかるように話をしてくれているのは上司で、こっちも魔導士。
「ウソだ」
「嘘じゃないんだ。君が森のなかで出会った人は、悪魔だ」
「ウソ!」
「本当だ」
「ウソだ! そんなことないもん!
いじわるされなかったよ。カゴを持ってくれて、靴を探してくれたもん。
悪い人じゃないよ。
悪魔なんかじゃないんだから!」
男の声は苦いものを食べたときのような声で言った。
「悪魔なんだ」
残酷はほどにはっきりと。
「悪魔は君に、自分は人間だとは言わなかった。
だって君はその人に、悪魔か人間なのか聞かなかったから。
だから悪魔は、自分が悪魔であることを、君に言わなかった」
うそ、うそ、と彼女は言い続けた。
足元にうずくまって両手で耳をふさいだ。けれどすでに聞いてしまった言葉が頭の中をぐるぐると回った。
悪魔だ、悪魔だ、悪魔だ、悪魔だ、悪魔だ悪魔だ悪魔なんだ……。
「うそぉ……」
大きな手が髪を撫でる。
優しい男の声。
「今まで君は、悪魔は怖い生き物で、ひどいことばかりをするとしか聞いたことがなかったと思う。
それがウソか本当か、確かめてみないか?」
彼女はゆるゆると頭を上げた。
頬にべったりとついた涙が温かい指で拭われる。
「わたしの知る悪魔は、少し変わっているが、自分が美味しいと思うものをわたしに勧めてくれる。そのうちの半分は、確かに美味しいものだったよ」
「悪魔って、人間を食べるんだよ。あんたも人間食べたの?」
「その悪魔は人間を食べないんだ。人間と同じものを食べる。
ほかにも、家族と離れて暮らす女の子が寂しくて眠れないとき、唄を歌ってくれる悪魔もいる」
「悪魔の歌をきいたら、死んじゃうんだよ」
「でもその子は何度聞いても生きているよ。
悪魔だって、誰かに優しくしたいときがあるんだよ」
「…………ほんとう?」
「本当だ」
少女はスカートのポケットに入っているものを握りしめた。彼がくれた最後の飴玉。
これがなくなったら、また会ってくれると約束した。
彼は、優しい悪魔だろうか。
また会うという約束を守ってくれるだろうか。
会っても彼女は彼の姿を見ることができないのに、彼はそれでもいいのだろうか。
それとも、彼女の目が見えないからいいのだろうか。
自分が悪魔だと知られずにすむから、また会おうと約束してくれたのだろうか。
でも彼は、彼女に顔を見てほしいと言っている。
見なければ、聞かなければ彼が悪魔だと知らずにいたのに、どうしてばらしてしまうのだろう。
「しらなくて、いいのに」
「え?」
「悪魔だなんて、知らなくてもいいのに」
「うん。そうかもしれない。
でも、知ってほしかったんだ。悲しみが深くならないうちに、君に知ってほしかったんだ」
「どうして、あたしに?」
「さあ? どうしてなのか、会って聞いてみるといい」
少しだけ間を置いて、彼女はうなずいた。
「ありがとう」
「……ちがうよ。会うって、約束してただけなんだから」
「そうか。
それじゃ、今からわたしは君の夢の中にはいるからね。
大きくて黒い獣を一頭連れてくる。
その獣に向かって、君の悪魔の名前を呼ぶんだ」
「……それだけ?」
「そうだよ」
「呪文とかいらないの?」
男の声は笑った。
「悪魔の名前は、名前そのものが呪文なんだ。
君は、君の悪魔にとって、最強の呪文を知っている。
あの悪魔は、もう君のものなんだよ」
原因不明の高熱に倒れ、視力を失った少女がいた。
少女は十五歳まで生きることができたが、そのあいだ成長するにしたがい体は弱っていった。
その地方では、死の間際、死後も会う約束をした人の名前を呟く風習があった。
だが少女が呟いたのは母でもなく、兄でもなく、祖母でもない人の名前だった。
『ファフェルアイオ……』
最期を看取った家族と親しい人々は、少女は短い生涯の中で恋の一つもできたのだろうと、悲しみの中で少しだけ微笑んだ。
人々が彼女の死を惜しみ、少女の恋を祝福する間、一人の男が席を外したことには誰も気づかなかった。
そして湖を抱く山々の中でその男が自らの心臓を取り出して湖に投げ捨てたことは、彼を知る魔導士しか知らなかった。
「死ぬぞ」
「そうだな」
男は静かに応え、笑った。
「悪魔は死なない」
「そうだったな。……消えるぞ」
「世に未練はない」
「悔いもない、か」
羨ましいな、と魔導士が言った。
男は自分の心臓が沈んだ湖を眺め、魔導士はその男を見つめる。
陽が傾き、山の向こうに消え去ろうとする。赤々と燃える太陽に照らされる。
夜が頭上から覆い被さろうとする。
陽が沈む。
赤々と。
その最期の一線を。
男は目を細めて見送り、消えた。