ぽとり、と何かが頭にあたった。
上を見て、足元を見た。
「……ぬいぐるみ?」
彼はそれを拾い上げ、目の高さに掲げた。
愛らしい人形だ。目元の釣りあがった髪のない男の子と、長い黒髪の丸い目の女の子の対。
幼い少女が目にすれば、嬉々として手に取るだろう。
それにしても、どこから降ってきたのだろう。
世間は人形が飛ぶほど乱れてはいないと思うが。
先年やっと、組織の内部清掃が済んで一息ついたところなのだ。もう面倒事は起きてほしくない。
彼は使い魔を呼ぶと、匂いをたどって持ち主に人形を返すように命じた。使い魔は愛らしい縫いぐるみを足に括りつけられると、窮屈そうに飛び立った。
使い魔を見送る彼を、誰かが呼んだ。
「ここだ、グイド」
声をたどって、男が現れた。
「こちらでしたか」
「なんだ?」
「南から報告がありました。こちらをご覧ください」
男から書類を受け取り、目を通す。読み進めるうちに彼の目に真剣さが増した。
「確認させますか?」
「いや、いい。見つかっただけで充分だ」
「他人の空にかもしれませぬ」
「間違いはない。承認印の最後を見ろ」
彼は書類を男に戻した。
受け取った男は、言われた個所を見て首をかしげる。
「この方が、何か?」
「南の長老だ。一度面識がある。間違いないだろう」
男は納得してうなずいた。
「南の長老は、代替わりなさったのですか……」
彼はうなずいた。
「先代はお年を召して継承されたそうだ。わたしが座に立ってすぐにあいさつに来られたとき、長くは続かないだろうと本人も言われていた」
「長老の交代とは、久々ですな」
「そうだな。西が百年ほど前だったな」
「おや、百五十年ほど前ではなかったでしょうか?」
「そうだったか……? それなら、北がまだ若いのか」
「そうですな。北は……」
遠くから騒ぎの声が聞こえて、二人は口を閉じた。
「何事か見てまいります」
「いや、すぐに来そうだ」
彼はフードを目深にかぶりなおして近づく声に背を向けた。
「何事だ!」
男が騒ぎに向かって叫んだ。声が一瞬弱まり、警備の者たちのうち一人が振り返って膝をつく。
「御前をお騒がせして申し訳ありません。すぐに」
「現大師!」
若い男の声が警備の男の声を遮った。彼は弾かれるように振り返る。
警備の男たちの怒鳴り声に、慌てて彼は手を上げて制止させた。
命じられて警備の男たちは足を止め、言われるままに侵入者から手を放す。
「どうなさいました?」
男の問いに彼は答えず、
「下がれ」
とだけ言った。
渋々男は警備の男たちを引き連れて下がった。
人気が完全に消えると、彼はフードを取った。
「お久しぶりです」
「急に申し訳ありません、現大師」
彼は笑った。
「お急ぎのようですね。お聞きしましょう」
侵入者はうなずいて、緊張の面持ちで話した。
「───……光を、と?」
「はい、現大師。どうもその悪魔、人間の少女を気に入っているようです」
「強い光、と言っても……」
「わたしもいろいろと試してみましたが、少女の視力は完全に失われているようで、何の反応もしません。治癒者に依頼をしようかとも思いましたが」
「感知しない場合、悪魔が暴れる恐れがある、と」
「はい。治癒者に危険がおよびます」
彼は思案した。
目の前の侵入者とて並みの魔導士ではない。その人でも難しいというのを、どうすれば良いのだろう。
「現大師」
「ん?」
「おそらく少女の目は、今の医学や治癒の力では治らないと思います」
「……そうか」
だから、と侵入者は唇を噛んだ。
「一度だけ、その悪魔に夢を見させてはいただけませんか?」
「……ゆめ? 悪魔は夢を見るのか?」
悪魔という種族は眠らないという。眠らないのなら夢も見ないものだ。
「わたしに許可をください。夢魔を呼び出します。
夢魔の力で少女の夢に入り込み、そのなかで悪魔の姿をわたしが描きます」
彼は目を見張った。
侵入者は彼の視線を直接見ることはできないはずなのに、実際まぶたは下りたままなのに、まるで見えているかのように彼を見返してくる。
目の前の人の視力が失われたのは、とても昔のことだと聞いている。
だからその人は彼の顔も知らない。世界の色も色褪せたものしか知らない。
今だって見えていないはずなのに、彼の心の中を読み取ろうとするかのように見つめてくる。すべてを暴かれるほど強く。
もしかしたら、まぶたの裏に彼の心を移し取っているのかもしれない。
「光を……」
「え?」
「どうして、悪魔は光を求めたんだろう。強い光を……聖光を浴びれば、自分は滅びるって知っているだろうに」
「忘れてはいないでしょう。
けれど、少女に自分が何であるのか口にできない。だから、その目で見てほしいのです。
その目で見て、答えを出してほしいのです」
「……なぜ?」
「それでも……自分は悪魔だけれど、それでも変わらずいてくれるか、それとも二度と会ってはくれないか……悪魔は恐れているのです」
彼は驚いた。
悪魔が驚くなんて。
「悪魔は驚きもすれば悲しみもします。聖光を恐れるように、何かに惹かれることもあります。
悪魔のなかにも、明日独りになる恐怖を知っているものもいるのです。
悪魔の中にも、孤独を嫌うものもいるのです。
悪魔の中にも……人を、愛しいと思うものも、いるのです」
彼は胸の奥から温かいものが溢れるのに気づいた。
閉じたまぶたの向こうが熱くなる。
両手を胸の前に広げ、それを受け止めようとする。
目の奥が痛いほど熱くなる。
波が押し寄せるようにそれが近づく。
するり、とそれはまぶたを抜け出して、頬を滑り降りる。
手の平で受け止めたときには、ころん、と音がなるほど形を取っていた。
彼の涙から生まれたそれは丸く、光る様は小さな月のようで、光の色は太陽のように暖かい。
「ティ……っ」
侵入者はおもわず彼の名をこぼしそうになり、自分の口を手で押さえた。
彼は微笑んで、光を侵入者に差し出した。
「夢の中は迷いやすい。
あなたが還って来れるように。それから……
悪魔に良いことが起こりますように」
悲しみも。
寂しさも。
驚きも。
愛しさも。
いつか喜びの光となりますように。
その代の大魔導師はひどく若かった。若いといわれた先代よりもさらに若く、まだ少年のような面立ちをしていた。
その理由は、彼の稀有な能力にあった。
古代の聖者が生み出したといわれる聖光を、彼は何の呪文も技法も必要とせずに生み出すことができた。
ただ感情が高ぶったときに、胸の奥から湧き出でるのだと彼は言った。
先代大魔導師は彼の能力を見出したときから、その力が心悪しき者に利用されないかと心配していた。また彼自身が、その悪しき者にならないかと、恐怖した。
彼が能力を安定させるとすぐに譲位し、彼に最高権力を与えた。そばには快き者を配属させ、彼に絶対の忠誠を誓わせた。
なぜそうまでして彼を守るのかと、若い大魔導師の側近が問うたとき、先代は少しだけ逡巡して答えた。
『あの子はまるで、わたしの兄のようだ。人々を照らし出す光のように明るく素直で、心優しすぎる。
けっしてその心を侵してはならないと思った』
自らの過ちによって兄を亡くしたという先代は、二度目の過ちを犯さないためにも、譲位を急がせたのだという。
先代にそこまで言わせたほど心優しい大魔導師を、彼の親しい人々はこう呼んだ。
『光のティリル』───。
「お気をつけて、お父さん」
「…………」
彼の光を受け取った侵入者は、唇を噛んで俯いた。
光を生み出すとき、ほんの少しだけ胸が痛むのを知っている人だから、本当はこんなことはするなと言いたいのだけれど、言っても聞かないので諦めたのだろう……。
と彼は思ったのに、そうではなかった。
「頼むから、ティリル。お父さんと呼ぶのはいいかげんにやめなさい」
「え? でも、お父さんだよ」
「違う。こういうのは名付け親というんだ」
「一緒じゃないか! オムツも替えてもらったし、子守唄を歌ってもらって、お風呂にだって入れてもらったって、お母さんが……」
「ちがーう!!」
侵入者は顔を真っ赤にして走り去った。
お父さん、なんて久々に聞いて照れたのだろう。
上を見て、足元を見た。
「……ぬいぐるみ?」
彼はそれを拾い上げ、目の高さに掲げた。
愛らしい人形だ。目元の釣りあがった髪のない男の子と、長い黒髪の丸い目の女の子の対。
幼い少女が目にすれば、嬉々として手に取るだろう。
それにしても、どこから降ってきたのだろう。
世間は人形が飛ぶほど乱れてはいないと思うが。
先年やっと、組織の内部清掃が済んで一息ついたところなのだ。もう面倒事は起きてほしくない。
彼は使い魔を呼ぶと、匂いをたどって持ち主に人形を返すように命じた。使い魔は愛らしい縫いぐるみを足に括りつけられると、窮屈そうに飛び立った。
使い魔を見送る彼を、誰かが呼んだ。
「ここだ、グイド」
声をたどって、男が現れた。
「こちらでしたか」
「なんだ?」
「南から報告がありました。こちらをご覧ください」
男から書類を受け取り、目を通す。読み進めるうちに彼の目に真剣さが増した。
「確認させますか?」
「いや、いい。見つかっただけで充分だ」
「他人の空にかもしれませぬ」
「間違いはない。承認印の最後を見ろ」
彼は書類を男に戻した。
受け取った男は、言われた個所を見て首をかしげる。
「この方が、何か?」
「南の長老だ。一度面識がある。間違いないだろう」
男は納得してうなずいた。
「南の長老は、代替わりなさったのですか……」
彼はうなずいた。
「先代はお年を召して継承されたそうだ。わたしが座に立ってすぐにあいさつに来られたとき、長くは続かないだろうと本人も言われていた」
「長老の交代とは、久々ですな」
「そうだな。西が百年ほど前だったな」
「おや、百五十年ほど前ではなかったでしょうか?」
「そうだったか……? それなら、北がまだ若いのか」
「そうですな。北は……」
遠くから騒ぎの声が聞こえて、二人は口を閉じた。
「何事か見てまいります」
「いや、すぐに来そうだ」
彼はフードを目深にかぶりなおして近づく声に背を向けた。
「何事だ!」
男が騒ぎに向かって叫んだ。声が一瞬弱まり、警備の者たちのうち一人が振り返って膝をつく。
「御前をお騒がせして申し訳ありません。すぐに」
「現大師!」
若い男の声が警備の男の声を遮った。彼は弾かれるように振り返る。
警備の男たちの怒鳴り声に、慌てて彼は手を上げて制止させた。
命じられて警備の男たちは足を止め、言われるままに侵入者から手を放す。
「どうなさいました?」
男の問いに彼は答えず、
「下がれ」
とだけ言った。
渋々男は警備の男たちを引き連れて下がった。
人気が完全に消えると、彼はフードを取った。
「お久しぶりです」
「急に申し訳ありません、現大師」
彼は笑った。
「お急ぎのようですね。お聞きしましょう」
侵入者はうなずいて、緊張の面持ちで話した。
「───……光を、と?」
「はい、現大師。どうもその悪魔、人間の少女を気に入っているようです」
「強い光、と言っても……」
「わたしもいろいろと試してみましたが、少女の視力は完全に失われているようで、何の反応もしません。治癒者に依頼をしようかとも思いましたが」
「感知しない場合、悪魔が暴れる恐れがある、と」
「はい。治癒者に危険がおよびます」
彼は思案した。
目の前の侵入者とて並みの魔導士ではない。その人でも難しいというのを、どうすれば良いのだろう。
「現大師」
「ん?」
「おそらく少女の目は、今の医学や治癒の力では治らないと思います」
「……そうか」
だから、と侵入者は唇を噛んだ。
「一度だけ、その悪魔に夢を見させてはいただけませんか?」
「……ゆめ? 悪魔は夢を見るのか?」
悪魔という種族は眠らないという。眠らないのなら夢も見ないものだ。
「わたしに許可をください。夢魔を呼び出します。
夢魔の力で少女の夢に入り込み、そのなかで悪魔の姿をわたしが描きます」
彼は目を見張った。
侵入者は彼の視線を直接見ることはできないはずなのに、実際まぶたは下りたままなのに、まるで見えているかのように彼を見返してくる。
目の前の人の視力が失われたのは、とても昔のことだと聞いている。
だからその人は彼の顔も知らない。世界の色も色褪せたものしか知らない。
今だって見えていないはずなのに、彼の心の中を読み取ろうとするかのように見つめてくる。すべてを暴かれるほど強く。
もしかしたら、まぶたの裏に彼の心を移し取っているのかもしれない。
「光を……」
「え?」
「どうして、悪魔は光を求めたんだろう。強い光を……聖光を浴びれば、自分は滅びるって知っているだろうに」
「忘れてはいないでしょう。
けれど、少女に自分が何であるのか口にできない。だから、その目で見てほしいのです。
その目で見て、答えを出してほしいのです」
「……なぜ?」
「それでも……自分は悪魔だけれど、それでも変わらずいてくれるか、それとも二度と会ってはくれないか……悪魔は恐れているのです」
彼は驚いた。
悪魔が驚くなんて。
「悪魔は驚きもすれば悲しみもします。聖光を恐れるように、何かに惹かれることもあります。
悪魔のなかにも、明日独りになる恐怖を知っているものもいるのです。
悪魔の中にも、孤独を嫌うものもいるのです。
悪魔の中にも……人を、愛しいと思うものも、いるのです」
彼は胸の奥から温かいものが溢れるのに気づいた。
閉じたまぶたの向こうが熱くなる。
両手を胸の前に広げ、それを受け止めようとする。
目の奥が痛いほど熱くなる。
波が押し寄せるようにそれが近づく。
するり、とそれはまぶたを抜け出して、頬を滑り降りる。
手の平で受け止めたときには、ころん、と音がなるほど形を取っていた。
彼の涙から生まれたそれは丸く、光る様は小さな月のようで、光の色は太陽のように暖かい。
「ティ……っ」
侵入者はおもわず彼の名をこぼしそうになり、自分の口を手で押さえた。
彼は微笑んで、光を侵入者に差し出した。
「夢の中は迷いやすい。
あなたが還って来れるように。それから……
悪魔に良いことが起こりますように」
悲しみも。
寂しさも。
驚きも。
愛しさも。
いつか喜びの光となりますように。
その代の大魔導師はひどく若かった。若いといわれた先代よりもさらに若く、まだ少年のような面立ちをしていた。
その理由は、彼の稀有な能力にあった。
古代の聖者が生み出したといわれる聖光を、彼は何の呪文も技法も必要とせずに生み出すことができた。
ただ感情が高ぶったときに、胸の奥から湧き出でるのだと彼は言った。
先代大魔導師は彼の能力を見出したときから、その力が心悪しき者に利用されないかと心配していた。また彼自身が、その悪しき者にならないかと、恐怖した。
彼が能力を安定させるとすぐに譲位し、彼に最高権力を与えた。そばには快き者を配属させ、彼に絶対の忠誠を誓わせた。
なぜそうまでして彼を守るのかと、若い大魔導師の側近が問うたとき、先代は少しだけ逡巡して答えた。
『あの子はまるで、わたしの兄のようだ。人々を照らし出す光のように明るく素直で、心優しすぎる。
けっしてその心を侵してはならないと思った』
自らの過ちによって兄を亡くしたという先代は、二度目の過ちを犯さないためにも、譲位を急がせたのだという。
先代にそこまで言わせたほど心優しい大魔導師を、彼の親しい人々はこう呼んだ。
『光のティリル』───。
「お気をつけて、お父さん」
「…………」
彼の光を受け取った侵入者は、唇を噛んで俯いた。
光を生み出すとき、ほんの少しだけ胸が痛むのを知っている人だから、本当はこんなことはするなと言いたいのだけれど、言っても聞かないので諦めたのだろう……。
と彼は思ったのに、そうではなかった。
「頼むから、ティリル。お父さんと呼ぶのはいいかげんにやめなさい」
「え? でも、お父さんだよ」
「違う。こういうのは名付け親というんだ」
「一緒じゃないか! オムツも替えてもらったし、子守唄を歌ってもらって、お風呂にだって入れてもらったって、お母さんが……」
「ちがーう!!」
侵入者は顔を真っ赤にして走り去った。
お父さん、なんて久々に聞いて照れたのだろう。