彼は順調な人生を歩んでいた。
 若くして支部長という地位を得ることができた。ここで経験と実績を積めば、次は総支部か、あるいは本部へ呼ばれるだろう。



 彼は両親を早くに亡くしはしたが、伯父夫婦は快く引き取ってくれた。だが彼は、素質があるからと言われて魔導士に弟子入りした。
 師匠は普段優しい人で、怒るときにはこめかみに血管を浮き上がらせて唇をプルプル震わせ雷を落とすような人だった。
 でも普段は優しいので気にしなかった。ヘマをしなければいいのだ。

 問題は、彼が二三歳のときだった。
 新しい兄弟がやってきた。
 みすぼらしい格好の痩せこけた子ども。
 言われなければ女の子には見えない。言われても見えない。

 先日姉弟子が独り立ちしたので、師匠の弟子の中では彼が一番の年長だった。
『お風呂にいれておあげ』
 イヤだといえば師匠は唇をプルプル震わせて怒るだろう。
 彼は渋々少女を連れて風呂場に向かった。

 散々だった。
 お湯にはいるのが始めてだったらしく、驚いて風呂桶から飛び出し、素っ裸で風呂場を駆け回った。だけでなく、どこからともなく風を呼び、風呂にあるものすべてを巻き上げ、かき回し、彼も回した。
 彼は途中で失神した。

 それからある日、育ち盛りの兄弟弟子にパンを取られたと泣き出し、食堂の机をすべてひっくり返した。

 またある日、反抗期の兄弟弟子にいきなり殴られたと泣き出し、練習場にあった棒術用の杖をすべて吹き飛ばし、最後に杖は屋根に突き刺さった。

 またまたある日は、ろれつが回らず簡単な呪文を間違えて兄弟全員に笑われ、恥ずかしさのあまり走り出し、道行く女性たちのスカートをめくれあがらせて回った。
 男性諸君はいつになっても、忘れられない一日だったと目を潤ませる。

 またまたまたある日は、蝶の羽化を始めてみたと興奮して干したての洗濯物をすべて吹き飛ばし、ご近所にばら撒いた。自分のパンツを近所から取り返しに行くのはとても恥ずかしかった。

 そしてある日、師匠が定例会に出かけると聞いて悲しくて泣き出し、師匠の部屋を半壊させた。
 禁書が一冊、幻の書となった。



 そんな問題児でありながら、普段、妹弟子は素直でごくおとなしい子どもだった。
 嘘をつかれてもすぐに信じる。それが嘘だとわかっても、嘘をつかれたことよりも違ったことを悲しむような子どもだった。
 おかげで妹弟子は兄弟弟子に嘘ばかり吹き込まれて育った。

 彼が独り立ちするときもそうだった。

『兄さん』
『なんだ?』
 ほかの兄弟弟子たちの見送りは門までだった。
 荷物を持つからと妹弟子が着いてきた。船まではしばらく二人だけ。

『……兄さん』
『何だよ。早く言え』
 つい、ぶっきらぼうになってしまった。
 彼はもともと気が短く、何でも素早く済ませてしまわなければすまない性質だった。
 たった一つを除いて。

 妹弟子は意を決したように彼を見上げた。
『わたしがキライだから出て行くの?』



 誰に仕込まれたのだろうか。凡そ推測できる。
 妹弟子の一つ上のヤツだ。
 どこが良いのか、あいつはこの妹弟子にホレている。好きなやつほどからかいたくなるのだそうだ。

 だからといって、兄弟子に被害の出るようなことまでするとは……今度遭ったら首をしめてやろう。

『ごめんなさい』
 妹弟子はうつむいて呟いた。
 彼は風が起きないか急いで周囲を見回した。
『気にするな』
『でも……』
『おまえが気にすることじゃない』
『…………。うん』

 彼もその時若かった。せめてその時「違う」と言ってやれば妹弟子は勘違いを直しただろう。
 ついいつもの癖で早く終わらせようとして、「おまえには関係ない」と言ってしまった。

『…………そうだね』
 妹弟子の目から涙がポロリと零れた。
『……っ!』

 彼は素早く印を切り、結界を張った。
 だが強風は起こらなかった。

『?』
『兄さん』
『……な、なんだ?』
 彼は不思議なことに驚いて、妹弟子の表情を見ていなかった。

『ごめんなさい』
 もう一度言って、妹弟子は走って帰っていった。



 あとになって諸悪の根源である弟弟子に聞いたことだが、妹弟子は、今まで一度も自分の嵐を直接受けず、かつ後始末を何度も手伝ってくれた兄弟子がいなくなるのが嫌だったのだそうだ。

 それはそうだ。
 彼は最初会ったときにはすでに二三歳で、もう少しで独り立ちできるくらいの人格を形成していたのだ。妹弟子を泣かせて楽しむほど子どもではなかった。
 そして弟妹の後始末は長子の役目でもあった。何も一人限定ではない。

 この諸悪の根源……弟弟子が師匠の寝台でおねしょをしたときだって汚れたシーツを洗いもした。
 ほかの弟妹が近所の子どもとケンカをして負けてくればケガの手当てをした。
 別の妹弟子が変な男に絡まれたときなんて、相手は取り巻きを六人も連れてきたというのに彼は一人で対峙した。
 また、泳げないくせに川で遊んでいた兄弟子が流されたときだって、死に物狂いで助けようとした(実際、助けてくれたのは師匠だが)。

 だが、真っ直ぐにしかものを見ない妹弟子は、優しい(と思っている)兄が遠くにいってしまうのが悲しくて、さらにそんな兄に自分は嫌われていると(いうウソを)聞いた衝撃で、それから三年、嵐を起こさなかったという。

 そのまま一生嵐なんて起こさないでいてくれればよかったのに、復活してしまったことを師匠からの手紙で知った。
 使いで酒を買いに向かった酒場で酔っ払い親父にケツを撫でられ、店の屋根を吹き飛ばしたらしい。

 それでも成長するに従い、嵐を起こす度合いは幼いころより減っていった。



 なのになぜだろう。
 彼は深くため息をついた。

 先日、久しぶりに妹弟子に会った。
 同じ敷地内にいるというのに、立場が違うためになかなか会えなかった。
 それが、超便秘で寝込んだ師匠を瀕死だと勘違いして支部長である彼に治療の延長を求めに来たのだ。

 あっさり断った。
 だってもういいかげん、出そうだったから。

 なのに妹弟子は、師匠が見捨てられたと勘違いして、怒って面会室を半壊してくれた。
 彼の言い方も悪かったのかもしれない。何でも素早く片付けたい彼は簡単に「できん」と言って終わらせようとしたのだ。あの妹弟子なら勘違いして当然だ。
 ちょっと反省。

 そして師匠に頼まれて便秘を隠していたことを知ってまた怒り、今度は謹慎室の扉を吹き飛ばした。
「謹慎四日延長!」
 彼は命令書に判を押した。



 十四日にも及ぶ謹慎で、さすがに妹弟子も疲れきっていた。
 普段は教育者として子どもたちに囲まれ、忙しない毎日を送っているのだ。一日十頁の反省文と食事以外、することがないのは苦痛だったようだ。

「反省したか?」
「はい」
「師匠はおまえと入れ違いに快癒され、家に戻られた」
「はい。お聞きしました。
 ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
 妹弟子はしおしおと頭を下げた。
 そのまま退室しようとするのを引き止める。

「忙しいのはわかるが、そのまま戻るのはよせ。
 隣の休憩室に浴室があるから、せめて汚れを落とし、着替えてから行きなさい」
 このまま来室まで廊下を歩かせれば人目につく。
 色気は微塵もないが、女だ。汚れた姿で人目にさらすのは不憫だと思った。

 なのに、断りやがった。
「え! あ、い、いいえ。あの、来室のを、お借りします」
 委員長たちを吹き飛ばした張本人とは思えないほど謙虚だった。

「なぜ?」
「え? あ……あの、いえ、その……あの、だ、大丈夫です」
「何が大丈夫なんだ。おまえ、鏡見たのか?」
「あ、え、いいえ。でも、いいですから! けっこうですから!」
 こんな意固地なヤツだっただろうか。
「なぜ!?」
「ごめんなさい! 早く出て行きますから!」

 まだ自分に嫌われていると思っているのか!
 いや、前よりひどくなっていないか!?

 時の流れは残酷だ。
 残酷ついでに腹が立つ。

 薄汚れた子どもは汚れを落とせば美しい小麦色の肌で、黒い髪は伸びるにしたがい艶を増し、瞳だけがつぶらなまま。平らだった胸は丸みを帯び、折れてしまいそうなほど腰はくびれた。
 外見はともかく、もっと性悪とか陰険とか邪悪な相手だったらさっさと退室させただろう。

 妹弟子は相変わらず、素直で泣き虫で、鈍感だった。



 彼は机を迂回して、逃げようとした妹弟子の腕を掴むと引き寄せて両肩を掴んだ。
「兄さっ……」
 驚いた顔に顔をぶつけた。





 若くして支部長となった魔導士がいる。
 彼は何でも素早く済ませたい性質だった。
 難問の事件も、頭の痛い事後処理も、面倒な人間関係も、すべてすっきりさっぱり、素早く済ませる。
 どんな無理難題も彼は引き受け、解決していった。
 問題があるのなら、たとえ隣のものだろうととりあえず解決しなければ気がすまないという、損な性質だった。

 ただ一つを除いて。

 それは、彼の恋人とのことだった。
 恋人は人と話していると、
「兄のパッソンが……………………あ」
 さらにそれは彼と話しているときが特に多い。
「あのね、兄さん………………………………………………………………………………あ」
 二人は小さいころに兄弟弟子となったため、恋人はときどき彼を兄に戻してしまうのだ。
 おかげで彼は、友人たちからも『兄のパッソン』と呼ばれ、からかわれた。

 そんな彼女の癖を、彼はなかなか直してやれないでいた。彼にとって難問だった。
 兄さん、と口を滑らせるのは、それだけ気を許している証拠だったから。
 嬉しいような、苦しいような。
 甘いような、苦いような。

 まさに人生最大級の、お兄ちゃん的苦悩……。





 兄弟子が後々そんな悩みを抱えるとも知らず、また長いこと想われていたことに微塵も気づかなかった妹弟子は硬直して、唇を離しても呆然としていた。

「わたしはモーウ導師の面会に出る。
 浴室は勝手に使いなさい」

 彼は妹弟子を置いて執務室を出ると、赤くなっているであろう顔をフードで隠した。



 翌日に彼は、初めての告白に初めて舌を噛み、言われたことを理解した妹弟子が支部の練習場を半壊させることになるなど、今は予想もしていない。