「……まさか…………」
「まさかにございます、若。悲劇の女皇が思いを投げつづけたバラは強い器となりました。
 あのバラのすべてがイエラ様のために器となり、一日一輪の花しか咲かせぬようになったのです」
 一日一輪。イルスが主の執務室に飾る一輪だけを除いて、すべてが婚約者に化けていた。
 だが今、婚約者はその器を落としてきたらしい。
 女皇のバラは満開だ。

「女皇のバラは一つだけ弱点がございました。
 悲劇の女皇が花に涙を落としつづけたせいでございましょう。涙を流すと術が一時的に弱まり、解けてしまいます」
 老人は細い体を重そうに動かし、二人の前に立つ。
「じい?」
「お静かに」
 老人は婚約者に向かって小さく呟く。歌のようなものが聞こえた。
「あ…………」
 頭の先からみるみる、彼女の形が固まってくる。透けていた向こうの壁が見えなくなる。

 青かった唇が薄紅色に染まり、触れると柔らかく、温かい。細い腰。小さな肩。
「イエラ?」
「……ごめんなさい」
「イエ、ラ……」
 涙が止まらなかった。
 目を閉じても彼女を手のひらに感じることができるのに、その感触がすべて作り物であり、一時の幻でしかないと知ってしまった。
 だが悲しいのはそれよりも、彼女を死なせてしまい、あまつさえ、それを忘れていた自分が腹立たしかった。

「イエラ……」
「……ごめんなさい」
「………イエラ、悪かった」
「パーシィク?」



「もう二度と、君を忘れない」






 イスルの話を、主と黒い魔導士、そして宰相はじっと聞いていた。
 あれだけ騒がせたのだから報告しておかなければと、イルスは翌日、婚約者を主の執務室に連れてでた。
 宰相は脂汗を流しているが、残り二名は涼しい顔をしている。いや正確には、一人は顔を隠していてわからないが。

「本当に、申し訳ありませんでした」
「大丈夫なのか、おまえは?」
 主の静かな声に、イルスは肩を撫でられたような気がした。
「大丈夫ですと、はっきりとは言えません。ですが、冷静に考えることはできます。
 彼女はまだここにいます。
 今は、それだけでも充分です」

 昨夜は一晩中、二人で話をした。
 小さい頃のことから、つい最近のことまで。何度も同じことを言ったように思う。何度も同じ場面を聞いたような気がする。
 それでも驚き、笑い、懐かしんだ。

「このまま彼女と結婚します。
 それ以上、なにも望みません」
 主は静かな眼差しでうなずいた。
 その横で、宰相が泡を吹いて倒れた。