今日は少し冷えるようだと、上着を一枚着ようとしたときだった。

 ぐ、がしゃーん

 大きな物音がした。
 彼は片腕をあげたまま硬直したが、上着は袖に両腕を通して肩に上げられる。彼はそのまま、首から上を動かして窓の外を見ていた。

 夕暮れのようだ。
 大きな火の塊が森の向こうに沈んでいく。
 じっと見つめていると、脳裏が真っ赤に染まってしまいそうだ。

 窓の下からにょき、と人の手が覗いた。窓の桟を手が掴み、肘まで上ってくる。
 夕暮れ時、窓の外に腕だけとは奇怪だ。
 と、思ったら頭が出てきた。
「いっ……てててっ」
 頭を抱えてその人は現れた。
 どうやらまた、着地に失敗したらしい。

「わりぃ。外のバケツ、穴あいちまった」
 地面に足をつけるだけなのに、なぜバケツに穴が空くのだろう……。
 だが彼は文句も何も言わず、ただ一度うなずいただけだった。
 その前は井戸に落ちて地下水が吹き出し、水の精霊から苦情が相次ぐという事件があったのだ。バケツに穴が空くくらい、驚くことではない。



 湯気のたつ茶器がことりと音を立てて机に置かれるのを待って、口を開いた。
「熱いですよ」
「あぁ」
 その人は非常に猫舌なので、言われなくても湯気がなくなるまで手を出さないだろう。
 それでも一応、目上への気遣いとして口にしてみただけだ。

「ここはもう涼しいな」
「そうですか。そちらはまだ暑いのでしょうか?」
「暑い暑い、クソ暑い。どうにかしてくれっておチビちゃんに泣きつかれた」
 彼はいつも、遣える家の娘を「おチビちゃん」と呼ぶ。息子だと「チビ」と呼ぶので不評だ。

 引かれた椅子に座り、自分に用意された茶器を両手で包むように抱える。
 もういい、と言葉でなく手を上げて示唆すると、背後の気配が消えた。
 その人がにやりと笑った。
「相変わらず器用だな」
「一人暮らしは何かと不便なので」
「戦闘系以外の召喚獣なんて、そうそういないぜ」
「術者がこうですから、それ相応のものがでてくるだけです」
 くっくっく、とその人は笑った。



 妻が死んで、一人することもなく家にいた。
 せめて妻が寝台にいてくれれば、何か話をして一日を過ごせただろう。それがもう叶わず、窓際に腰掛けて外を眺める日々だった。
 眺めるといっても、妻が死んだ翌日からまぶたは下りたままだが。ほんの一瞬を除いて。

 あの日もボーっと昼まで過ごしていたら、その人がやってきた。
 やってきた……というより、落ちてきた。移動系術が苦手なのに、一人で移動していたらしい。
 地上五メートルほどの高さから落下してかすり傷と打撲だけだったのには驚いた。さすが高位の魔導士だと感心したものだ。

 自分だけならともかく、客人───それもかなりの先輩である。突然の来訪であろうとお茶の一杯でも出すべきだろうと、召喚獣を呼んでお湯を沸かすように言い、茶器を洗わせ、茶葉を煎らせた。
『器用なヤツ』
 それがその人の感想だった。

 それからその人は、移動中の中継地点として、彼の庭を利用するようになった。
 そのたびに茶だ菓子だメシだともてなしていたら、用もないのに来訪するようになった。



「どこから聞きつけたのか、オレがおまえに会ってるのがばれたらしいぜ」
「……誰に、ですか?」
「誰だと思う?」
「え? えー…………」
「思い出せよ。あんだけ熱烈にやられてただろ?」
「………………」
 その一言で思い当たった。
 忘れることができたらどれだけ良かっただろう。

 生まれたばかりのひ孫の顔を見に行ったときだった。
 一緒にいた身内の前で抱きつかれて「好きです」と告白された。

 息子は「お父さんおめでとうございます」と勘違いし、出産直後の孫嫁は気絶した。孫は混乱して妻をおんぶして我が子を抱きかかえ、逃げていった。
 その後、目を覚ました孫嫁に散々怒られた。
『お祖父さま、お年を考えてください!』

 自分が一番の被害者だったのに……。



「そ、それで……?」
「言ってねぇよ。でもあいつ、今でも独り身だぜ」
「魔導士の大半は独り身です」
「浮いた話も聞かねぇな」
「あなたの話は聞こえてきますが……?」
「きれいに別れたさ」
 また別れたのか……。

「お願いです。絶対に言わないでください」
「いいぜ。いうこと聞いてくれたらな」
「…………。なんですか?」
「北のシュハイルって国、知ってるな? 最近、悪魔が湖を占領してるらしい」
 確かその湖が下流に向かって川となり、国の中央を通って人々の生活を潤していたはず。

「死活問題ですね……」
「現大師の許可は取ったぜ。あとはおまえの承諾だけだ」
「承諾も何も、引きずってでも連れ出す気じゃないですか」
「正解!」
 くっくっく、とその人は笑った。

「師匠のいない今、おまえを引きずり出すには現大師しかいないからな」
「これでもわたしは引退した身です。師が存命であっても、お断りしたいものです」
「まぁそういうなよ。悪魔と話ができるやつは少なくってな」
 若気の至りで悪魔と遭遇して以来、あちらの常識がわかるようになってしまった。
 わかったとしても、あまり会いたくはない。いや、ぜひ会いたくない。

「セッダ導師に依頼されてはいかがですか?」
「ほかの任務に長期でついている」
「閣下にお話されてみてはいかがですか?」
「お目付け役に蹴りだされるさ」
「イセセラという……」
「支部を半壊させて謹慎中だ」
「………………………………」
 ほかに思いつかなかった。
 悪魔と交渉できる魔導士は本当に少ないのだと、改めて思った。

 まったく、と彼は舌打ちする。
「悪魔と交渉できるってヤツは、ほんっと問題児だらけだな」
 あなたに言われたくありません、と彼は心の中で呟く。
「おまえもどうせ、つい口が滑った口だろ?」
「………………………………」
「口は災いの元ってな。
 おとなしく着いてきな。おまえなら五日もあれば成立させるさ」

 五日もここを離れるのかと、彼は暗鬱な気分になった。





 悪魔との交渉術は困難を極める。
 交渉を成立させたとしても、人間に不利な条件が組み込まれてしまうことが多々ある。
 そのため、どんなに熟練した話術士であろうと、悪魔との遭遇だけは避けていた。
 もし、交渉を成立させ、なおかつ生存している人間は必ずこう言う。

 口は災いのもと
 悪魔の前では静粛であれ───





「じゃ、用意しな」
「今からですか? もう夜だと思いますが」
「明日の朝一番に出発するんだ。今夜のうちに顔合わせしようぜ」
「はぁ……」

 目は見えないが、彼にはわかる。
 その人は、自分は楽ができるとウキウキしていた。

 彼はウツウツとしそうだった。