最近、弟子の様子がおかしい。
 昔から迂闊で激情家でおっちょこちょいだから、また王子と変な賭けでもしたのだろう。
 王子の教育にも悪いが、弟子にも悪影響だ。

「どう思われますか?」
「うん。どうしたんだろうな」
 わたしはため息をついた。
 彼にとっては孫弟子にあたるのだから、少しは気にかけてもらいたい。

「師よ。たまにはわたしの相談にも乗ってください」
「気に病むほどのことでもないだろう」
「そう、思われますか?」
「わたしはそう思う」
 あなたはそうでもわたしは違うのよ、と心の中だけで抗議する。



 彼は世界的にも有名な魔導士だ。
 今も組織は彼を取り戻そうとしているくらいに貴重な人物だ。

 だが、実際の彼を知る人は言う。
『彼はこの世界にいない』

 奥方が亡くなると彼は第一線を退き、主が亡くなると隠遁生活を始めた。
 一番弟子といわれた自分でさえ彼を探し出すのに十年以上を費やした。
 それほど彼は優れた魔導士だった。

 なのに、奥方がこの世を去ったと同時に、彼も心をあの世に送ってしまったのだという。



「昔な……」
「は?」
「昔、悪魔と契約を交わした人と知り合った」
「はぁ……」
 迂闊で激情家でおっちょこちょいな人だったのだろう。

「彼はどうしようもなくて契約を結んだのだそうだ。
 最初のうちは、命には返られなかったとはいえ契約を交わしたことに、苦悩されたそうだ。
 しだいに……二十年ほど経ったころだろうか。彼は悪魔と契約を交わしたことを喜んだそうだ」

 わたしは眉を上げて信じられないと呟く。
「わたしも、信じられなかった。
 彼ほどの人が悪魔との契約を喜ぶなどと……」
 ふふ、と彼は笑った。

「彼は生来、体が弱かった。悪魔と契約を交わしたことにより長寿を手に入れた。
 そのおかげで、死にに行く友人を止めることができたそうだ。
 そして、そのおかげで、大切な人の最期を看取ることができたそうだ。

 彼女は泣き虫で、自分をとても愛してくれていたから、自分の死には耐えられなかっただろうと。
 寂しがり屋の彼女を一人にするわけにはいかなかったから。
 だから彼女より先に死ぬことがなくて良かったと」

 彼は薄く微笑んでいた。

 閉じたまぶたの裏には何が描かれているのだろう。
 奥方が亡くなってから一度も開かれていないまぶたの向こうに、何が見えるのだろう。



「わたしは、心配することはないと思う」
「…………はい、師よ」
「それより、夜が明けきらないうちに帰りなさい」
 言われて窓から外を見れば、遠くの空が白んでいた。

「……師よ」
「うん?」
「お戻りには、ならないのですね」

 何度この質問をしただろう。

「どこに?」

 何度その答えを聞いただろう。



「…………。
 いいえ。戯れごとです」
 失礼します、と椅子から立ち上がる。
 振り返ればすぐに玄関の扉。

 小さな家だ。
 彼が彼の奥方の最期を看取った、人里離れた丘の麓。
 すぐそばに滾々と清水を湛える泉。
 周囲は木々が取り囲んでいる。丘の頂上に立っても木々以外は何も見えない。
 こんな静かで穏やかなところに彼はもう何年いるのだろう。

 扉を開けて朝陽の前触れに目を細める。
「キヤラ」
 彼に呼ばれ、振り返る。
 彼は影の中にいてはっきりとは見えない。
「はい、師よ」

「あの子の悪魔は、悪い者ではない」
 安心して良い、と彼はうなずいた。





 魔導士の中でも特殊な能力を持つ、感応者。
 そのなかに眼に特殊能力をもつ者がいる。

 有名な感応者に『眼のラスア』と呼ばれる魔導士がいた。
 彼は幼いころからその能力を買われていたが、組織にはほとんど貢献しなかった。
 少し眼をこらせば世界の端まで見えるという能力を、どんなに請われても使わなかった。

 それに対して組織のトップである大魔導師も何も言わなかった。
 なぜなら、彼は組織など通さず、大魔導師から直接依頼があれば自ら進んで動いたのだという。
 けれど大魔導師の願いでなければ動かなかったともいう。
 組織にとっては眼の上のたんこぶ、歯がゆい人物だったが、大魔導師にとっては貴重な友人だった。

 おかげで彼は、後世こうも呼ばれた。



 たんこぶラスア、と。





「ちょっと来なさい」
 朝一番、呼びつけられて弟子は目を丸くした。

 なんと言ってやろうか。
 迂闊で情熱家でおっちょこちょいの弟子に、何と言えばいいのだろう。
 呆れてやろうか、長々と説教してやろうか。

「……………………」
「あの……お師匠さま?」
「……くび…………」
「は?」
 何のことだと弟子が首をかしげると、さらにそれが良く見えた。



 明らかに唇で吸われた跡。



 とりあえず、弟子の首に絆創膏を貼ることにしよう。